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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その17)

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針葉樹
 常盤木を和建築の部材として利用するときは、色を付けるなど加飾を施すことは好まれず、素木(白木)のまま使用することが普通です。

 日本人はこの素木を好みます。これは中国文化に決して見られません。そして、一般に常盤木というのは多く松や一位、また日本固有種である杉など針葉樹をさします。

 榊は広葉樹ですが、榊以外のほとんどの広葉樹が寒い時季には落葉します。このことが日本独特の針葉樹崇拝を生んだのかもしれません。

 たとえば床柱には多く針葉樹が用いられます。この床柱における格の高さを材種順にいえば、いずれも常緑針葉樹である松、檜、栂(別名:ツガマツ、ツガノキ)となります。
他に床柱へは黒檀(コクタン)や紫檀(シタン)といった唐木(カラキ)など広葉樹も用いられますが、これらは寺院での用途が中心です。
また、鳥居の材にも檜や杉が用いられます。

 ちなみに、唐木という名称は、奈良時代に遣唐使が唐の文化とともに当時には珍しい木材と木製調度品を日本へ持ち帰り、これらを総称して唐木と呼んだことがその始まりです。

 唐木は当初、3種であったことから唐三木とも呼ばれます。このうち黒い木が黒檀、朱紫色の木が紫檀と名付けられました。
最後の一つが白檀(ビャクダン)であり、これは辺材を除いては白色でありませんが、前二者に比較すれば白いことから、あえてこう呼ぶようになったそうです。

なお、特に三大唐木と称する場合は黒檀、紫檀、鉄刀木をさし、これらは、いずれも常緑樹です。

 唐木は日本では採れない輸入材のため、またその名称からも知れるように唐様で好まれた材です。たとえば唐木は白檀を除き、真言宗など密教系での仏壇に用いられます。
そして、香木である白檀は数珠などの仏具や仏像彫刻材としても利用されてきました。「栴檀は双葉より芳し」というときの栴檀は白檀の異名です。

 中国の軸装では、かつて白檀が軸木に用いられましたが、日本での軸装では三大唐木をその軸先に用います([図-2]参照)。
これの使用も仏教関係の作品、特に禅語を書作品化したもの、つまり唐様作品に使います。
逆に、神道主題の作品へは、軸先に素木地(シラキジ)仕上げの一位材を用いるのが通例です。

 ところで、神道では神様を数えるのに1柱、2柱というように、柱の単位で数えます。これは神が樹木に宿る、あるいは樹木を使って降下する(天降る)と信じられてきたからです。

 ですから、「主」(=神)に木偏を付けた「柱」で神を数えるようになったといいます。そして、考古学の世界でも柱は原始信仰との深い関連が指摘されています。

 床柱もこのような信仰の心性を受けてか、床の間で最も重要視されるインテリア要素とされてきました。
それは床柱が、これをあたかも本尊とするかのように床の中心に据えられることからも知れます。

 先に「ギ(キ)」は男性神を表すとしましたが、神道における神籬(ヒモロギ)の「ギ」は常磐木を表すという説もあるように、日本では常磐木による柱が神霊の依り付くところ、すなわち依代とされます。

 本居宣長は、その古事記研究書『古事記伝』で「伊邪那岐」の「岐(き)」の字を清濁併用と見なしたため、現在も「イザナギ」という読みが浸透しているといいます。そして、イザナギのギは連濁であるといわれます。
つまり、イザナとキを続けて発音することによってイザナギと呼ぶようになったといいます。

 すると、キの付く木名を持つ、榊や蘭、檜、杉などの「キ(ギ)」も、もしかすると男性神を表しているのかもしれません。
2011年06月30日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その16)

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Ⅲ-③ 和の特殊な好み

 唐様と和様を比較すると和様の特殊性が浮かび上がります。本節では特に和様で特徴的に見られる好みから和の心を探ってみましょう。

常磐木
 日本では常盤木(トキワギ)が好まれてきました。常磐木は常緑樹のことであり、落葉しないことから永久不変を意味するといわれます。
つまり、いつまでも枯れない(ケガレない)という点で常磐木を愛でたのでしょう。

 かつて神籬(ヒモロギ)へは、この常盤木を植えて囲んだそうです。神道でいう神籬は、神霊の依り付く場所の一つとされるものです。

 さて、神道においては、常磐木の中でも特に榊や一位(イチイ)が好まれます。

 榊は椿科の常緑樹ですが、そもそもは境木(サカキ)の意で神域(神籬)の境界へ植えた、あるいは神に供される榊に限らない常緑樹のことをさしました。

「榊」は「神に捧げる木」を表す国字であり、賢木や神樹とも表記されることがあります。
榊は麻布や紙などを付け神前に供える玉串として用いられ、転じて玉串は榊の異称となります。

 なお、関東以北では榊が生育しないので、榊の代用として類似種のヒサカキを用います。ヒサカキは「姫榊」とも「非榊」とも字が当てられます。

 関西地方では蘭(アララギ)と呼ぶ一位もやはり常緑樹です。
東北北部や北海道ではヒサカキを産しなかったため、一位は榊の代わりに玉串など神事で用いられ、神社の境内にも植えられます。

 この一位とはそもそも最高位という意味です。かつて神官が君命を拝受する際、笏(シャク)という箆板(ヘライタ)を自分の眼前に掲げ、そこへ君命を間違いのないよう書き記しました。
君命は第一位の重要事であり、その君命を記す笏にはかつて一位の木だけが使われたため、この木がイチイと呼ばれるようになったそうです。

 一位は天皇が即位されるときの儀式に用いる笏の材料にも使用され、また古くから御神体や仏像の彫刻材としても用いてこられました。

 ただ、その赤い果実は甘く食用になり、これを漬け込んだリキュールも楽しめますが、種子はタキシンという毒性の強いアルカロイドを含んでいます。ですから、種子を誤飲すると中毒を起こし、呼吸困難で死亡することさえあります。
つまり、先述の梅干と同じ構造です。

 ちなみに、古くヨーロッパでは、一位には埋葬された死者の出す毒性の発散物を吸収する力があるとされ、多く墓地に植えられたそうです。
そして、火葬で使用する薪にも使われてきました。

 日本で同じような役割を果たす植物に常緑高木の樒(シキミ)があります。樒は仏前草とも呼ばれるように、仏教の慣習、特に仏事における供養と結びついた植物です。

樒は全体にアニサチンなど有毒成分を有しており、特にその含有量の多い実は「悪しき実」と呼ばれ、これが樒の語源になったといいます。

 この樒が主に関西地方で仏前や墓前で用いられるのは、実際的な理由があります。

樒は墓地に植えたり、その枝を墓前に供えます。これは先述の彼岸花と同様、かつて野生動物などの墓荒らしから、土葬されたご遺体を守るためです。

 また、樒にはその毒性を利用して、棺に葉を敷き死臭を緩和させる、その樹皮や葉からつくった仏前の焼香に用いる抹香(マッコウ)も死臭を清めるといった効用があったからです。
 「抹香くさい」というのは、これの薫香をさし、ちなみに樒はわが国特有の香木です。

 これが転じて「樒を死者の近くや墓に供えると悪霊がよりつかない」とされ、たとえばその一枝を枕飾の一つ、枕花(マクラバナ)として用います。
つまり、樒には毒気があるが、その香気で悪しきを浄めるという二面性を期するものとして利用されてきました。

 関西地方での葬式では、樒が供花として式場の周りを取り巻くように供えられます。これは樒の有毒性を利用して、主体(ご遺体)の都合の良くない変化を抑えるために用いられたと考えることもできます。
樒の一葉が末期の水をとる際に用いられるのも、こうした意味があるかもしれません。

 なお、かつて樒は榊と同様、神事に用いられたといわれます。それゆえ、榊に対し樒を仏(佛)に捧げる木という意で「梻」という国字で表したこともありました。

 ところで、木ではありませんが、常磐木と同じく一年を通して緑の葉をたたえる植物に笹があります。

七夕祭や恵比寿祭などで多用されることからもわかるように、笹は霊性を宿し、厄除けの力があると信じられてきた植物です。それというのも、笹の年中不変なところからでしょう。

 東京の湯島聖堂や大阪の少彦名(スクナビコ)神社で行われる、医薬の祖、神農(シンノウ)を祀る「神農祭」には隈笹(クマザサ)を神前に供えるのが慣わしになっています。
それは隈笹が悪霊をハラうとされているからです。

 隈笹の葉は、押し寿司や笹団子、また端午の節句で食する習慣があるチマキに使われます。それは隈笹に古くから防腐・抗菌作用のあることが知られるからです。
ですから、隈笹は漢方薬や民間薬としても使われます。

 常緑であるということに限らず、案外こうしたことが笹に霊性を見出してきた由縁でしょう。
また、先述の折敷(オシキ)にも原初は隈笹のような葉身幅の広い笹を用いたのかもしれません。

 隈笹は、その葉が越冬するときに縁が枯れて白くなる、つまり隈取りになることがその名称の由来です。
そして、笹のなかでも特にこの隈笹が重んじられたのは、その葉が縁のみ枯れることから、つまり陰陽の和合を有しているからかもしれません。

 しかし、笹とよく似た竹は、神事で主役を務めることがありません。日本の竹類はほとんどが中国渡来であり、これに対し笹が日本原産のものであるからか、竹の葉はその代用であることが多いようです。

 笹と竹は混同して用いられますが、これらの相違は一般に丈の長短だけでなく、茎を包む鞘にあります。
竹の茎、つまり竹稈(チクカン)は当初こそ鞘に包まれますが、成長すると鞘は基部から外れて茎が露出するのに対し、笹は茎を包む鞘が剥がれず枯れるまで残ります。

 こうした竹稈自体も依代となることはありません。地鎮祭に用いる斎竹(イミダケ=忌竹)も神籬を囲うものであり、門松にしても依代の対象は松です。
2011年06月29日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その15)

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菱餅とヨモギ
 雛祭りには菱餅がつきものです。菱餅は上から赤(紅)・白・緑の構成で、これは草餅の上に紅白の餅を置いたことに由来するともいわれています。

 赤い餅は解毒作用のある山梔子(クチナシ)で赤味をつけます。菱の実を入れた白い餅は、血圧低下などに用いる薬膳にしたといわれます。
緑の草餅は当初、咳止めや内臓などに良いとされる母子草(ゴギョウ)の草餅でしたが、後に増血効果がある蓬(ヨモギ)を使ったといいます。

 なお、紅白は毒などタタリを抑止する効果があると信じられてきたものです。これまでの流れでいえば、母子草あるいは蓬が毒を持つといえるのですが、これらは有毒成分を含みません。

 むしろ、フグに蓬の葉を添える料理店があるように、(実際はそうではありませんが)俗に蓬を食べるとフグの毒にあたらないと言い習わされます。
これは蓬の持つ精油成分やクロロフィルに殺菌力があり、そうした効用が古くより知られ民間薬として用いてこられたからです。

 今日でも、民間の伝承料理には蓬の生葉がさまざまな形で使われます。また、ケガをしたら蓬の葉を揉んでつけると治るといわれ、蓬は外用薬としても用いられてきました。

 こうした蓬は端午の節句で菖蒲と一緒に軒下へ差し、魔除けにすることもありました。これも蓬の殺菌力を基に生まれた風習でしょう。

 ただ、現代においても食中毒被害を生む、鳥兜の新芽と蓬のそれが似ている、あるいは草餅に用いるような野辺の草には毒を有していて、しかも食用草に似た雑草が多いといったところから、有毒な成分は含まれませんよという安全を担保する意味で草餅の上に紅白の餅を重ねたのかもしれません。

 さて、いずれにしても菱餅に用いる植物は全て薬草であることから上巳本来の行事の意味に合致する、というところが菱餅における配色の一つの根拠なのでしょうが、それでは菱形にしたのはなぜなのでしょうか。

 これには宮中で正月に食される菱葩餅を起源とする説があります。
また、菱の繁殖力の高さから子孫繁栄と、中国に菱の実だけを食べて長生きしたという仙人、鳧伯子に因み、長寿の願いを込めて菱形にしたという説があります。

 ですから、先合菱文様を雛図に用いるのは、桃の節句が女子の祭りだからという理由の他に、菱形が古来、子孫繁栄と長生を寓意するからでしょう。

菱形に見る唐様と和様
 江戸初期の茶人、小堀遠州は五三の比を常用したといいます。この5:3は黄金比(1.618…:1)に近似する整数比の一つです。そして、遠州は菱形を好んだといいます。

 紋章上絵師でもあった小説家、泡坂妻夫の『家紋の話』によると「(江戸時代の)上絵師は長年の勘によって、一番美しい菱」形の鈍角は正五角形の内角に等しいもの、としています。

 正五角形の一辺とその対角線の比は黄金比であり、すなわちこれから得られる菱形の一辺とその長手の対角線も黄金比に等しくなります。小堀遠州が好んだ菱形はこれをさします。

 黄金比は洋の東西を問わない理想のプロポーションとされており、作庭など建築や芸術に無類の才を発揮した遠州の審美眼は、こうしたことからも卓抜していたといえます。
そして、遠州の仕事には諸処に黄金比が見てとれるといいます。

 ところで、正六角形の対角線を結ぶことによって生まれる、正五角形のそれに比べると少し拉(ヒシ)いだ菱形もあります。
これは篭目紋のように正三角形を二つ合わせることによっても得られます[図-15]。

img15.gif

[図-15:正五角形と正六角形から生まれる菱形]

 菱餅や先合菱文様に見られる菱形は、こちらのタイプの菱形です。すなわち、有職文様に多く見られる菱形がこの正六角形から生まれたものであり、こちらの菱形が公家に好まれたものといえます。
また、この菱形は先述の麻の葉紋を構成するものです([図-8]参照)。

 ところで、小堀遠州は茶を千利休に学んだとはいえ、そもそも武人です。そして、利休亡き後は武家(〔真〕)の側に立った茶道の確立に力を尽くします。
 したがって、正五角形より生まれる菱形が唐様、正六角形からつくる菱形を和様と考えることができます。

 ちなみに、正五角形の対角線が一筆書きによって生まれる星形を中国で五芒星と呼びます。
これは先述の五行相克の関係を表現しているといわれます([図-13]参照)。
2011年06月28日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その14)

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桃の節句
 桃の節句の起原は平安時代に遡り、節日の中の一つ、上巳が後に桃の節句となります。
このころ上巳の節日には野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のケガレをハラって健康と厄除けを願ったそうです。

 また、桃の節句は、紙や草でつくった「ひとがた(ひいな)」という人形に己のケガレを移して代役とし、この形代を川や海に流して身の災厄をハラった日本の伝統行事に因みます。
この風習を「流し雛」といい、これと平安貴族の子女が親しんだ「ひいな遊び(人形遊び)」とが結びつきます。

 室町時代には三月三日に定着し、やがて雛飾りを行うようになります。

この三月三日は中国で西王母(セイオウボ)の誕生日とされます。中国でのこの日は蟠桃会(バントウエ)と呼ばれ、西王母を祀る廟では今日でも不老長寿を願う多くの参詣人で賑わうそうです。

 西王母は中国西方の崑崙山に住むとされる、道教で古くから信仰されてきた女仙です。
そして、西王母は蟠桃と呼ばれる仙桃を管理するといわれ、この蟠桃を食すれば不老不死の仙人になれると信じられてきました。

ですから、日本での桃の実図の作例は少ないのですが、中国では桃の実図を吉祥の図柄として喜びます。

 ところで、日本ではこの桃の節句に、雛壇がなければ雛図を床飾りとして用います。雛図は人形姿の男雛と女雛を絵画化したもので、その中には「桃背負い」、すなわち男雛と女雛の上方に枝付きの桃花が描かれたものもあります。

 『古事記』には、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)という、この世とあの世の境でイザナギが追いかけてきたイザナミを退けるために桃の実を投げつけたという神話があります。
これは桃が邪気を払い生を招く果実だとする、古代の中国や朝鮮の道教的な俗信を下敷きにした話といわれます。

 ちなみに、桃の木を剣形にしたものは、道教の邪気除けの儀式において欠くことのできないものとされます。

 ですから、雛図に桃花が描かれるのは季節性、あるいは桃の女仙を考慮しただけでなく、桃に悪鬼をハラう力があると信じられてきたからであり、桃の節句の厄除け思想に合致したからです。

 ところで、人形姿の雛図を表具するときには、大和錦(ヤマトニシキ)と呼ぶ赤地の錦織物や赤地の金襴を作品周りへ配することが表具師に口伝されています。
これはアカが女性の性色であるという理由ではなく、そもそも雛(ひいな)が形代としてケガレを負った存在であるからでしょう。

 さらに、赤地織物のそのまた周りには花菱を組み合わせた先合菱文様を有する織物を慣用します。

 先合菱は有職(ユウソク)文様の一つであり、女子の装束であった単(ヒトエ)に好んで用いられた文様です。
これは大小の花菱を規則的に組み合わせた文様で、花菱とは4弁の花紋を菱形に表現したものです。

また、先合菱は先合(さきあい)にかけて幸菱(サイワイビシ)と呼び、武田菱(タケダビシ)とも俗称します。これは甲斐武田氏の紋所が四割菱(ヨツワリビシ)であったことに由来します。

 なお、有職は「ゆうしょく」とも読み、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識をいいますが、有職文様は平安時代以来の公家階級で装束・調度などに用いられた伝統的文様をさします。

 それでは、なぜ公家女子の装束に多用された文様を雛図に用いるのでしょう。

それは上巳がそもそも公家の専らとしたマツリゴトであり、雛遊びが公家子女の遊びごとであったからです。

 こうした性格を反映して、江戸時代後期には「有職雛(ユウソクビナ)」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れます。
さらに、これが今日の雛人形につながる武家風の「古今雛」を生みますが、いずれにしても雛人形は、宮中における天上人の平安装束を模したものです。

 ただ、雛祭りが女子の行事として定着したのは、もう一つ理由が考えられます。それは和様=公家=女という〔行〕の性格を強く打ち出したいという朝廷や公家の欲求です。
 そして、もちろん端午の節句を武家が仮借したのは、逆の唐様=武家=男といった〔真〕意識の表れです。

これは、いずれの節句飾りも室町から江戸にかけて盛んになったことからもわかります。

 あるいは、陰がなければ陽は存在しないとする、武家側の都合によるバランスの維持が目的だったのかもしれません。

 なお、端午の節句は、田植え前に早乙女たちが田の神のため、社などに籠もってケガレをハラい清めるといった厄払いの行事であり、元来が女子の祭りであったといいます。
2011年06月27日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その13)

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端午の節句
 端午の節句は古くから邪気、災厄をハラう行事とされてきました。

端午とは端が初めという意味であるので、月の最初の午(うま)の日をさしました。それがのちに「午(ゴ)」と「五(ゴ)」の音通から、端午の節句が五月五日となります。

 端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれるように、この日には邪気をハラうとされた菖蒲を浮かべた風呂、すなわち菖蒲湯に入るのが慣わしです。
菖蒲湯には芳香のある根茎を用い、これはまた漢方薬としても利用されます。

 そして、この菖蒲(ショウブ)が尚武(ショウブ)に音通するところから武家の祭りに仮借されます。
ですから、江戸の後期にもなれば端午の節句には甲冑や武者人形が飾られてきました。また、掛軸においては若武者図だけでなく、金太郎図も端午の節句の床飾りに用いられます。

 この金太郎は鯉にまたがり急流を上ったことを由縁に五月人形の一つとされます。それは、「のぼり鯉」を漢語風に書けば「昇鯉」であり、これを勝利にかけたからです。

 また、のぼり鯉が江戸時代の武家の好んだ登龍門伝説を思い起こさせたという理由もあります。
逆に、金太郎が鯉で遡上した謂れは、そもそもこの伝説を下敷にしているのでしょう。

 登龍門伝説とは、中国の黄河上流に龍門と呼ぶ滝があり、この瀑布を登った鯉は龍になるという道教の古い言い伝えです。
 これをなぞらえて、かつての中国の難関な官吏登用試験、科挙(カキョ)の試験場には「龍門」の二字が掲げられ、この試験に及第することを「龍門に跳ねる」といいました。

 こうした謂れから鯉が出世魚とされ、古くから和漢ともに川魚の王として尊ばれてきました。
たとえば日本では、先述のように海水魚の流通が未発達であった頃、最も格が高いとされた鯉が宮中の行事食として用いてこられました。
さらにいえば、俎上の生魚の様子が男子の度胸に通ずるものとして、鯉は武家でも特に尊重されてきた魚です。

 江戸時代初期には武家でも町家でも7歳以下の男子のいる家では鍾馗(ショウキ)の幟(ノボリ)を戸外に立て、毒虫が集まるといわれた端午節の無事を祈願しました。
これへ出世魚である鯉の紙形を付けるようになり、これが鯉幟の祖形になったといいます。これには、もちろん「(滝)登り」と「幟」の音通もあります。

 ところで、鍾馗とは道教の降魔神(ゴウマシン)です。そして、中国の鍾馗図は多くコウモリとセットで描かれます。
というのも、鍾馗が、中国では福を暗示するといわれるコウモリの招来を促す、あるいはコウモリを叩き落として幸福(降蝠)を招くと信じられているからです。

 鍾馗図は日本でも古くから縁起物とされてきましたが、関西ではこれを飾ることが少ないようです。
それは江戸時代に、関東=武家文化(唐様)、関西=公家文化(和様)という棲み分けがあったからかもしれません。

 「東男に京女」という成句も、このことを示しているのでしょう。
あるいは、これが「よい組み合わせの例」とされるのは、東(陽)と男(陽)、京(西=陰)と女(陰)という、陰陽和合による理由もあると考えます。

 江戸時代の文化や社会の発展は、こうした陽(唐様)と陰(和様)との対立と融合によってもたらされたのかもしれません。

 ちなみに、コウモリは漢字で蝙蝠と書きますが、中国では蝙蝠が蝙(biãn)≒遍(biàn、あまねくという意)という音の類似、そして蝠(fú)=福(fú)という音通によって、あまねく福(すべてが幸福)、あるいは福が飛んでくるという意味を示し、吉祥とされます。

 しかし、日本ではあまり良い意味で使うことは少ないようです。
たとえば「鳥無き里の蝙蝠」といった成句は、鳥、すなわち優れた者や強い者のいないところで、つまらない者(空を飛べる蝙蝠)が威張るという意味です。

 また、コウモリは狂犬病等の人に感染するウィルスを持っていることから、つまりケガレを備えていることから、不浄な生き物としてきたからかもしれません。
そして、日本でコウモリを神としたことがないのは、コウモリに有用性を見出さなかったからでしょう。

 こうした理由からか、日本では絵画の主題に蝙蝠をあまり採用しませんし、鍾馗図にも中国のそれと異なり、蝙蝠が描かれることはほとんどありません。
2011年06月26日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その12)

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唐様の吉数から成立した五節句
 五節句(五節供)と呼ばれる式日にもまた、「五」という唐様におけるハレの吉数が用いられています。

 節句とは、もともと中国から入ってきた古いしきたりから起こったものです。この五節句には人日(ジンジツ=正月七日)、上巳(ジョウシ=三月三日)、端午(タンゴ==五月五日)、七夕(シチセキ=七月七日)、重陽(チョウヨウ=九月九日)があります。

 節句を古くは節日(セチニチ)といい、節日には朝廷において節会(セチエ)と呼ばれる宴会が開かれました。
そして、数ある節日のうちの五つを江戸幕府が季節ごとの重要な式日として定めたのが五節句です。

 これらは主に奇数の重複、すなわち陰陽五行思想にしたがって、「陽」の重なりが重要視されて生まれた習俗です。
特に重陽は、その名称にも反映しているように一桁の数字の中で最大数の、陽の極とされた「九」の重なりです。

 重陽の節句は季節柄、菊の節句とも呼ばれます。この節句には邪気をハラい長寿を願って菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝います。

 ところで、なぜ菊が長寿の願いを負うのでしょうか。
それは酈県(リケン=現、河南省)にあるとされた甘谷(カンコク)と呼ばれる川に菊が落ち、その川を常用する人に長命な者が多かったからという中国の古い伝承に因みます。

 どうしてこのような伝説が生まれたのかといいますと、紀元前1世紀頃、周の穆王(ボクオウ)に仕えた慈童(ジドウ)が『法華経(普門品)』にある2句の偈を唱える精進のため、この偈を備忘に甘谷の端に咲く菊葉に記したそうです。
その後のある日、慈童がこの菊葉から下露が滴り落ちた甘谷の水を飲んだところ不老不死の仙人になったからといいます。

 ちなみに、この偈が「具一切功徳 慈眼視衆生、福聚海無量 是故応頂礼」であり、これは摘句され禅語として頻繁に書作品化されます。
ですから、これらの書作品も長寿の吉祥意を、その裏に示します。

 そして、この故事が絵画化されたものは「菊慈童図」といい、また「菊慈童」は能楽の題材にも採り入れられています。

 このようにして菊に道教と仏教の二つの要素が取り込まれ、和漢ともに菊が延命長寿のシンボルとなります。

 さて、重陽の節句は中国で最も重要とされたにもかかわらず、現在の日本では宮中を除き、ほとんど行われていません。
それは「九(く)」の重なりを嫌ったという理由もあるでしょうが、端午と桃の節句、および七夕が、日本の古習俗と強く結びついたものであり、他の節句といささか意味が異なるからです。

 かといって、これらの3節句が日本の古習俗だけで成立しているのかというと、そうではありません。

七夕
 たとえば、かつての七夕はそもそも仏事であった盂蘭盆会(ウラボンエ)の一環習俗であり、かつ豊作を祖霊に祈る前のミソギの神事でもありました。

 なお、「お盆」ともいう盂蘭盆は、一般に祖先の霊を供養するという儒教的な行事です。
そして、七月の始めは方角でいえば裏鬼門に当たる時期であり、このとき祭祀を行うのはやはり陰陽の二気が逆転して気が不安定になると考えられていたからでしょう([図-3]参照)。

 「盆も正月もない」という慣用句は忙しくて休暇も取れないさまを表すものですが、盆と正月が対比されるのは、いずれも第1章に述べた「時」における鬼門であるからです。

 七夕(しちせき)を古くは「棚機(たなばた)」とも表記しました。それは日本在来の棚織津女(タナバタツメ)の伝説と習合したからです。
七夕を「たなばた」と発音するのはその名残りです。

 また、七夕はややこしいことに、女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(キッコウデン)という中国の行事が奈良時代に伝わり、いつしかこれとも習合します。
乞巧奠は「巧みであることを乞う女の祭り」であり、道教伝説に見られる天帝の娘、織女(ショクジョ=おりひめ)と、牛飼いの牽牛(ケンギュウ)の物語が元になったものです。

 以上のように七夕は、和漢のいくつもの習俗や伝説が一体となった総合行事です。そして、七夕はこうした理由で陰陽和合の一つの顕れと考えることができます。

 ただ、笹に色紙(イロガミ)や短冊をつけて軒先に立てるといった笹飾りは、江戸時代になってからといわれる日本独特の風習です。
そして、七夕に用いる笹は精霊(祖霊)が宿る依代が起源だと考えられています。

 この笹飾りで用いる「五色の短冊」の色は、一般に青、赤、黄、白、紫です。黒の代わりに紫が用いられるのは、おそらく七夕が多く道教説話と日本の神話に因むものであるからでしょう。

 ところで、かつて宮中では節日に赤飯が食されたといいますが、七夕、および端午と桃の節句はケガレをハラうという点で強く共通する節句です。

 七草の節句ともいう人日にも、邪気を払い万病を除く占いとして七草(七種)を食べる風習がありますが、これは古くに中国で「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた羹(アツモノ)を食べて無病を祈る習慣が元になったといいます。

 また、俗に七草を食べるのは御節料理で疲れた胃を休める、あるいは野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うためともいわれます。

 さて、つぎには端午と桃の節句について、唐様-和様の構図を探ってみましょう。
2011年06月25日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その11)

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四のタブー
 同じ偶数でも「四」は「死」に音通することからタブーとされてきました。これには五目並べ(あるいは連珠)で「四四」を禁じ手にするなど多くの例が挙げられます。

 表具でいえば「四曲屏風が仕舞い(四枚)に通じるとし、つくるものではない」と表具師は口伝されました。
また、江戸時代に切腹屏風と俗称された、切腹の際に背後へ立てる屏風も四曲(四枚繋ぎ)の白貼屏風(シラハリビョウブ)です。

 さらに絵画の主題でいえば、日本で虎など獣類を描くときにも「四」のタブーが見られます。

四つ足の獣は必ず3本足で表現され、つまり足の1本が隠れて見えないように描かれます。
二羽の水鳥や鶴が立ち姿で並置されて描かれるときも、いずれかの足の片方を折り曲げ、あわせて3本の足しか描かれません。

 ところで、明治以前まで日本では四つ足の獣類を食することが禁忌とされました。
これは天武天皇による肉食禁止令以来の伝統とされますが、それにはやはり「四」のタブーも潜んでいるのでしょう。
また、血(赤不浄)に対する恐れもあったことと思います。

 このタブーを堅固なものにするため、念入りなことに四つ足の食肉獣を総じて「しし」と呼び、「し」の重なるものとして長らく忌んできました。
たとえば鹿を「かのしし」と呼んだことがそうです。

 しかし、「いのしし」は畑を荒らす害獣として、たびたび狩られたことがあったからか、秘かに食する者も多かったようです。
このとき罪悪感を薄れさせるため、猪肉(シシニク)を鯨肉と食味が似るところから「山鯨(ヤマクジラ)」と呼んだことがあったといいます。

 この鯨は古名を「勇魚(イサナ)」というように魚とみなされてきました。
また、鯨は先述のように神と奉られたことから、山鯨という呼称は一種の嘉語でもあったのでしょう。
この山鯨は猪に限らず獣肉一般に用いられることもあります。

 猪肉は「牡丹肉」とも呼ばれます。この「牡丹」という用語は特に肉食(ニクジキ)が禁じられていた僧侶が江戸時代に使った隠語ともいわれます。

 兎も四つ足ですが、長い耳を羽に見立て、その耳を掴んで持ち上げることで、二本足の鳥を装って食したといいます。
兎は一羽、二羽と、鳥に用いる助数詞「羽(ワ)」で持って数えるのは、その名残なのかもしれません。

 ところで、なぜ猪を牡丹と呼んだのでしょうか。

それは猪の肉が牡丹の花の色に、削いだ身が牡丹の花弁に似ているからだと説明されますが、これはおそらく古代中国の伝説に由来してのものです。

 中国で獅子は牡丹を愛で、そして食すると伝えられます。ですから、獅子は多く牡丹と組み合わされ、いわゆる唐獅子牡丹(カラジシボタン)として図案化されます。

 日本では同名の歌謡曲のヒットにより、ダークサイド的なイメージが未だ強いのですが、陰陽論では動物が陽、植物を陰とします。
そこで、唐獅子牡丹を獅子=男性、牡丹=女性と解釈すると、それぞれが公と私、つまり義理と人情を表すことになります。

ですから、「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界…」と始まる「唐獅子牡丹」の命名の妥当性にはうなずけるものがあります。

 ただ、唐獅子牡丹は本来が百獣の王である獅子と、百花の王とされる牡丹という、豪華で吉祥の意を多分に持つ組合せです。

 獅子は中国で瑞獣とされてきました。そして、そもそも獅子は架空獣であり、中国に伝えられたライオン図像に、想像を加え空想上の生き物にしたものが唐獅子といわれます。

 このデフォルメされた獅子を表現する獅子文は魔除けや家位栄達を示します。
獅子を魔除けとするのは、一つに獅子が密教では菩薩の三昧耶形(サンマヤギョウ)とされているからです。三昧耶形とはこの場合、獅子が菩薩を表すシンボルという意味です。

 このように中国由来の獅子は唐様と見ることができ、先述の狛犬が日本独自のものであることから狛犬を和様とすることができます。
獅子・狛犬も向かって右へ獅子、左に狛犬が配されます。そして、両者をコンビとしたのは陰陽和合を図ったものであるからでしょう。

 なお、狛犬を角のある造形にしたのも、何とかして獅子と区別したいが故のことであったのかもしれません。

 さて、獅子と牡丹の組合せは絵画や文様以外に、たとえば歌舞伎十八番の一「春興鏡獅子」で見られます。
これは牡丹を背景として急調子で踊る獅子の舞の場面であり、この舞はお祝い事の舞として知られています。

これは伎楽、舞楽、太神楽(ダイカグラ)などで行なわれる唐から伝わった日本の獅子舞が、こうした吉祥の意を負うものであるからです。
また、日本での獅子舞は五穀豊穰の祈祷や悪魔を払い清めるものとしても、各地の祭礼行列で行なわれています。

 したがって、猪肉を牡丹肉と呼ぶのはやはり嘉語の表現、すなわち猪(いのしし)を吉祥的に獅子(しし)と見立てたからでしょう。

 ところで、牡丹は蝶との組合せも多く見られます。これは唐の文宗の時代、宮中で牡丹が満開になり黄白の蝶が群がってきたので、それを捕まえるとすべて金になったという伝説や、荘子が夢で胡蝶となり牡丹に戯れたという故事に基づいてのようです。
これらのことから、逆に「牡丹に蝶」の図柄は獅子を表すことがあります。

 ちなみにいえば、花札での猪鹿蝶(イノシカチョウ)の役は蝶を獅子に見立て、いのしし(猪)・かのしし(鹿)・しし(獅子)の三ししとなることから成立するのでしょう。

ニンニクと山葵
 以上のように、かつて日本では獣類をさほど食することがなかったので、食肉の臭みを消すためのニンニクを料理に使う習慣がありませんでした。

 あるいは、これを仏教の戒に求めることができるかもしれません。仏教では酒と肉食、そして五辛を禁じています。
五辛を具体的にいえば大蒜(ダイサン=ニンニク)、茖葱(カクソウ=ニラ)、慈葱(ジソウ=ネギ)、蘭葱(ランソウ=ノビル)、そしてもう一つが日本にはない興渠(コウキョ)です。

 しかし、ニンニクやニラはともかく、酒やネギなどを考えると、すべてがすべて仏教の戒が由来だとするのはやや不自然です。

これは、やはりニンニクによる強烈な口臭、あるいは獣肉食に伴うニンニク臭をもケガレと見た、と考えるのが妥当でしょう。
日本では江戸時代、公家や武士階級ではニンニクを食べることが禁止されていたといいます。

 日本人は臭いに敏感な民族だといわれています。欧米人に比べ、ほとんど体臭が感じられないということも、その理由の一つとされます。

 ただ、体臭の少なさは日本人に限らず東洋人全般の体質ですが、死臭を極端なまでに嫌ったことや、日本独自の芸事である香道の発達などから知るその嗅覚の繊細さは、やはり日本の高温多湿な、つまり腐敗や発汗を生みやすい環境風土に根差すものでしょう。
日本人が風呂好きであるのも、この点にあります。

 ところで、日本料理でニンニクを使うのは「鰹のタタキ」だけであるといいますが、獣肉食を行う国でのほとんどの料理には、ほぼ100%ニンニクが香辛料として使われます。

 こうしたニンニクを調理に用いる国では、魚肉の臭みを緩和するにもニンニクを用いてきましたが、生臭(ナマグサ)を好む日本では魚を生食してきた歴史が長く、これを古くから山葵(ワサビ)で食してきました。

 学名をWasabia japonicaというように日本が原産の山葵は、海外で日本食ブームの今日、日本を代表する香辛料として世界的にも認知度が高いものです。

 清流でのみ自生する、あるいは栽培される山葵は、食中毒を防ぐといった殺菌効果を持ち、しかも魚介類に寄生する線虫、アニキサスの幼虫に対する抗虫作用があります。
アニキサス幼虫は人の胃壁で成虫になり、激しい腹痛を引き起こします。そして、このアニキサス幼虫は60℃以上の火を通すか、-20℃以下で冷凍しない限りは死にません。

 すなわち、山葵はあくまでこの場合、アニキサス幼虫の活動を抑制するために使用するのですが、生山葵を(醤油に含まれる)食塩と併用すればその効果が高いといいます。
したがって、この山葵醤油を使用すれば、アニキサス幼虫は便とともに体外へ排出されやすくなることから、山葵醤油は刺身や寿司になくてはならないものです。

 日本人の生臭好きが山葵のこうした効能を発見し、かつ調理に利用してきたのでしょうが、これにも清流、すなわち清い水と結びついたケガレをハラう構図が見えます。

 また、アニキサスはそもそも鯨やイルカなど海にいる哺乳動物の胃壁に寄生する線虫です。
このアニキサスが人に禍をなすことが経験的に知られていたからか、今日のような冷凍技術がなかった昔は、たとえば『勇魚取絵詞(1829年)』の別冊、「鯨肉調味方」にも記されるように鯨のワタを決して生でも塩漬けしたものでも食べる習慣はありませんでした。

 これが先述した鯨をヱビスとした理由の一つかもしれません。すなわち、鯨も祀られた国つ神と同じように、豊かさを約束する反面、タタリを為すといった二面性を有しているからです。
また、捕鯨の際に命を落とす漁師が多かったことも、その理由の一つでしょう。

 なお、これまでの諸例から類推すれば、二面性を持つのは天つ神以外の神に限定されるといえるかもしれません。
2011年06月24日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その10)

>>未分類
Ⅲ-② 吉数

 唐様と和様では吉数も異なります。一言でいえば唐様では奇数、和様では偶数を吉数としています。

 唐様で吉数を奇数とするのは陰陽五行の影響です。
これは奇数が陽、偶数を陰とするからであり、奇数を偶数より格上とするのは先述の「尚左」思想と連動しているからです。

したがって、儀式などあらたまったハレの場で用いる数字は特に七、五、三が多く見られます。

 なお、最高の陽数とされる九が、日本でハレに用いられることが少ないのは、「九」が「苦」に通じるとした言霊によるものでしょう。

 さて、五に関わる事物が五行説を由来とするのはもちろんのこと、たとえば日本料理で式正の膳立とされる本膳料理での献立に見る一汁三菜や三汁七菜、結婚式での三三九度、また命名の儀を行う「お七夜」や子供の成長を祝う行事「七五三」など、奇数をハレの数字とする例は枚挙にいとまがありません。
 さらに「注連縄」を「七五三縄」と表記することがあるのも、シメナワが式正の場面で用いられることを反映しているのでしょう。

 ちなみに、古代中国では0(ゼロ)の考え方はなく、したがって陰陽論で奇数が陽、偶数を陰とするのは、1が始まりで2がこれに次ぐからです。
たとえば数え年での年齢は、生まれてすぐが0歳ではなく1歳とするのも、0の概念がそこにないからです。

和様の吉数-「八」
 一方、和様では偶数のなかでも「八」と「六」が好まれます。これには道教の考え方が強く反映しています。

 なお、今日でも中国の民衆の間では、「八」と「六」を縁起の良い数字として喜びます。
中国は唐様の本家本元なのですが、これは道教思想が民衆の間で深く根付いているからでしょう。

 さて、まず「八」を好むのは、八角形が道教思想において宇宙観を示しているといわれるからです。
法隆寺の夢殿が八角形であるのも、聖徳太子が道教思想を多く受容したゆえのことでしょう。

あるいは、正八角形が陰陽和合を表していると考えられるからかもしれません。これについては後述します。

 この陰陽和合についていえば、十七条憲法の「十七」という素数の謂れは、『維摩経』にある菩薩の心事十七項目に因んだものとされますが、聖徳太子が陽の極大数「九」と陰の極大数「八」を和して陰陽和合を表したという説もあります。

 なお、「和」をモットーとした聖徳太子が建立したとされる四天王寺の寺紋は、二つ巴紋であり、これは陰陽魚太極図に近しいデザインのものです(陰陽魚太極図→[図-1]参照)。

 さて、いずれにせよ道教の色濃い影響を受けた神道においても八角形は最高の格式を持つとされ、これが由縁して「八」が神数とされます。

 たとえば八百万(ヤオヨロズ)の神がみのみならず、三種の神器である八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)や八咫鏡(ヤタノカガミ)、あるいは君が代の歌詞にある八千代など「八」は神道にとって重要なナンバーです。
そして、『古事記』にも、それこそ「八」のつく事物がごろごろと記されます。

 そもそも「八」は「弥(いや)」という語と同源で、弥は「大きい」または「数が多い」、あるいは「幾重にも重なる」といった意を表します。
そして、日本では古くから、たとえば弥重歯を八重歯と書くように「弥」に「八」の字を当ててきました。

 また、「や」は「弥」の意味から発展し、古語で「おめでたい」という義をもつ接頭語とされました。

ですから、「八」は「大きくて(あるいは数が多くて)めでたいもの」という意味になるでしょう。

 しかし、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)といった使用法から見ると、「弥」に悪気や祲兆(悪い兆し)の意もあることからか、はたまた御霊信仰の観点からか、「畏れ」あるいは「畏れおおいもの」をも表したのかもしれません。
あるいは、歴史に語られるスサノヲの性格を考えると、そもそも八岐大蛇は天つ神系であったとも考えることができます。

 ところで、神への御供え物(神饌)を盛る容器のことを折敷(オシキ)といいます。
これは古に木の皮や葉などの隅を折り敷いて食器の代用としたことからの名称といわれ、今日では「衝重(ツイガサネ)」にその名残が見られます。

 衝重とは片木(ヘギ=檜の素木)を折り曲げて底に足を付けた台、すなわち足打折敷(アシウチオシキ)をさします。なかでも、この足の側面三方に孔が空いているものが三方(サンポウ)と呼ばれます。

そして、この衝重を上方から見ると、八角形または四角形をしています。
 後者を特に傍折敷(ソバオシキ)ともいいますが、「傍」が本筋からそれたところという意味であることから、八角形がより格上とされます。

 さて、神紋として多用される折敷紋は、この八角形を写し取ったものといえ、ここにも八角形を尊ぶ思想が見られます[図-14]。

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[図-14:折敷紋]

 また、天皇家の御家紋は十六弁八重菊です。鎌倉時代、後鳥羽上皇が特に菊を好まれ、菊紋は爾来変遷を経て皇室専用の紋章となりました。
そして、この菊を八重菊としたのは八角形を尊貴な形としたところにもよります。

 表具では、かつて天つ神系の作品を軸装する際、その軸先には断面が八角形状のものを用いました(軸先→[図-2]参照)。
この様式は今日でこそ見かけませんが、つい大正時代には現役であった仕様です。

和様の吉数-「六」
 道教では、六角形が世界観を示すものとしています。そして、日本でも六角形は八角形に次ぐ格のものとされます。

 これは古の天皇や皇太子の古墳が八角形であり、六角形のものはそれに準ずる格の高い貴人を埋葬する墳墓に用いられたことからもわかります。

 正六角形を表す文様には亀甲文があります。亀甲文とは正六角形、あるいはこれが蜂の巣状に連続する文様をいいます。
また、前者を亀甲形、後者を亀甲繋ぎと呼称し分けることもあります。この文様名は日本で名付けられたもので、亀の甲羅に似ていることからといわれます。

 中国で古くは亀の齢が一千二百歳(日本では万年)とされ、亀は千歳を経れば霊(不思議な力)を具えて吉凶を知るといわれます。
そして、百歳で一尾を生じ千歳にて十尾を持つとされていることから、古典的な絵画や文様に表される亀は多くの尾を持った霊亀で表現されることが普通です。
 また、霊亀は蓑亀(ミノガメ)と呼ばれることもあります。蓑亀は長く生きるうちに尾部へ海藻が付き、これが蓑形状になった姿から名付けられたといいます。

 いずれにしても亀が延命長寿を表象するものであり、図案化された亀も古くから同様の意を表すと考えられました。これが発展し日本で亀甲文は長寿を寓意する吉祥文とされますが、文様を伝えた本家の中国では、正六角形を亀と結びつけてはいません。

 この日本でのみ長寿の願いを負う亀甲文は、たとえば産所屏風(ウブヤビョウブ)の裏貼に用いられました。
産所屏風とは白絵屏風の一種であり、お産のときに用いられた屏風です。
この白絵とは白い綾織の絹を貼ったものに雲母で絵を描いたものをいい、産所屏風の表へは、やはりいずれも長寿を表象する松竹鶴亀が主題として配されます。

 なお、これへ白地が用いられたのは白不浄(産穢)に対する結界であることに疑う余地がありません。

 また、裏貼に亀甲文が用いられたのは、長寿の願いのみならず格式の高さを表すためでもあったのでしょう。

この亀甲文の単位形象、亀甲形も折敷紋と同様に神紋として、あるいは敬神家の家紋として多用されるものです。熨斗鮑を六角形に折った紅白の紙で包むのも、こうした理由でしょう。

 ちなみに、熨斗鮑はそもそも格式の高い生臭です。
というのも、天照大神を伊勢神宮へ導いた斎宮、倭姫命が伊勢の国崎を訪れたとき、海女の差し出したアワビのあまりのおいしさに感動し、神宮への献上を願ったという伝説があるからです。
 これを由縁として、第2章の冒頭で記したように、鳥羽市の国崎には神宮司庁所管の御料鰒調整所(ゴリョウアワビチョウセイジョ)が設けられています。
2011年06月23日(Thu)
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