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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その20)

>>未分類
古美
 古味を帯びたものを賞翫する日本人独特の気風があります。これをフルビと呼び、日本人は一般に、年月の重みが加わっていることに古雅な趣を見出してきました。
 これは今日、サビという語で表現される日本的美の概念です。

 フルビはフルミが訛ったものと考えられており、古いものには味があるとして古味と表記し、さらに「古美」と字を当てたものでしょう。

 古美は神道における清浄の思想とは相反し矛盾するようにも思えるものですが、多くの事例から類推すると古美とは荘厳が施されたもの、美装されたものが年月を経ることによって、次第にその元の鮮やかな姿が控え目な色調へ転じたときに用いる語のようです。
 これはまた、サビとともに語られるワビという日本の美の概念を説明しています。

 さて、これを逆にいえば、自然と人工を陰と陽の対象としてきた古美は、多くが古びたその下に、秘めた美を内包している場合に用います。

 たとえば荘厳の施された寺院建造物に経年による古美が帯びることを愛でたり、また谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に書かれたような「心得ない下女などが、折角さびの乗って来た銀の器をピカピカに研いだりして、主人に叱られる」といったことです。

 特に、この銀の古美は古くから愛おしまれました。銀が好まれたのは、先述のように銀が高い殺菌性と財産性を示すものといったのも理由の一つでしょう。
 また、銀は砒素などの毒物にも化学変化を起こしやすい性質があります。

 たとえば江戸時代には、将軍や領主の毒殺を防ぐため、毒見役が事前に銀箸で毒物の有無を調べたといいます。
 というのも当時の主に使用された毒物に、硫砒鉄鉱という砒素化合物があります。これに含まれる硫黄分が反応し、銀の箸を黒変させたからです。

 ですから、銀(古美)へは鉄などと異なり、その表面のみが変化するところに価値性を見出してきたといえます。

 つまり、銀古美には古びた、黒いその下層に価値性の高い輝くばかりの銀色が存在していることから、一つに古美とはやはり不変を愛でる心です。

 ただ、日本人は一般に変色しない金へ古美感情を抱きません。

 ところで、「いぶし銀」という語はこれをさします。この硫化銀から発展的に生まれた表現「いぶし銀」は、華やかさこそ欠けるが実力はあるという意であり、これには寡黙な渋さがイメージされます。

 「渋い」は日本美学を代表する日本語です。日本文学研究者で先般、日本国籍を取得したドナルド・キーン氏は『日本人の美意識』で「(渋いは)すでに英語の辞書にも入っている」とし、「この言葉が意味する美的表現上の性格は、まず控え目、そして洗練ということだ」といっています。

 また、日本は言挙(コトアゲ=言揚)しない国といわれます。言挙とは「言(コト)」として表現されると「事(コト)」として実現するという言霊信仰に根差すものです。

 そして、言挙しないこととは「むやみに言葉として発してはかえって効力を失うこと、よほど重大なことでない限り慎むこと」であり、つまり賢明な寡黙さが日本人の美徳とされてきました。
これが日本人の「察する」ことを人間関係の基本に置くという姿勢を生みます。

 いぶし銀が好まれたのは、まさにこうした理由です。そして、控え目、寡黙さという形容は一段下った、つまり陰陽論の説く陰をイメージさせます。

 ところで、表具や書画の世界でよく用いる言葉に「時代色」があります。これは経年によって作品やその廻りに用いたものがくすむこと、あるいはくすんだ色をさします。
 表具で用いる部材へあえて時代色を付けることがあるように、「時代(色)が付く」のも決してよくない意味でなく、逆にプラスイメージの用語です。

 また、日本の絵画の世界には「大名浸み(ダイミョウジミ)」と呼ばれるものがあります。これも古来、古色が付いたとして喜ばれるものです。

 大名浸みは、その語が示すように、大名が所有していたような大名物(オオメイブツ)の絵画、特に絵絹に描かれた作品へ長年に亘って現れた茶系の斑紋をさしていいます。
 そして、時代色も大名浸みも良好な保存状態が出現の前提条件となるものです。

 したがって、古いものをただただ尊んでいるのではなく、その対象が荘厳や美装など価値を有しているものという前提があって初めて古美が存在すると考えます。
 しかも腐らない、すなわち朽ち果てないものが古美の対象です。

 そしてまた、埃がついている、あるいは汚れているというのは問題外であり、清潔であるというのも条件であるようです。

 秘めた美についてさらにいえば、たとえば素材に時代色がついても、たとえば素木ならば茶系に色が変化したとしても、削ればそれとわかるようにその内面には明るい生成り(キナリ)で無垢な色が存在しています。

 すなわち、古美は長期に亘ってケガレていないことを賞美する考え方ともいえます。こうした物の捉え方が日本人の素木を愛でる心にも繋がっているのでしょう。

 また、遷宮(セングウ)については先述したように、ケガレを意識したものであり、神社という建造物をケガレの吸着装置とみなしていたと考えるべきなのでしょうが、たとえば伊勢神宮に使われ遷宮によって廃材となった檜材はまた、全国の寺社に配られ、おのおの新たな社殿の造営に使用されます。

 つまり、削って新しくするといった、再生の思想がここにも見られます。

 いずれ古美も、中国的な自然を野卑とする唐様の文化観と異なり、人工をよしとしない、そして日本人の衛生観と結びついた和様独自の思考が深化したものと考えます。

 ただ、たとえば京都の竜安寺に見られる石庭もまた、人工であり、かつ自然を表現したとされるものです。
そして、自然と人工を陰と陽の対象と見なし、その和合をもって上手く自然と共生してきた姿がここにも浮かび上がります。

 古くなり、くすむことも自然現象です。ですから、古美もまた、陰陽和合を実現する一つの実例として捉えられてきたといえるでしょう。
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2011年07月03日(Sun)
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