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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その5)

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日光と月影
 陰陽論にしたがって、日の光を日光、月の光を月影と呼ぶと第1章で記しましたが、神道における神の像はなぜ神影(シンエイ)というのでしょうか。

 薬師如来の脇侍は日光・月光菩薩であり、日光・月影菩薩とは称されません。また、仏の姿を御影(ゴエイ)と呼ぶことはあっても仏影と言うことはありません。
つまりは、仏教=陽=光、神道=陰=影という構図です。

 畏れおおい、あるいは偶像崇拝を認めないといったことから神像に「影」という字を用いるということもあるのでしょうが、これも一つの、神が仏の下位にある、すなわち和様は唐様の下にあるということを示す言葉でしょう。

月への憧れ
 こうしたこともあってか、和様ではことさら月に対する憧れを持ってきました。

 京都にある桂離宮は八条宮家(桂宮家)の別業(別荘)として八条宮家初代の智仁(トシヒト)親王が創建したもので、禁中並公家諸法度が定められた1615年頃から造営に着手されたと考えられています。

 この智仁親王は月の名所とされた桂に月見台を設けたことからもわかるように、観月を極めて好んだそうです。月は移ろうものであり、こうした現象的な側面を情緒的な感覚で捉えるところもモノノアワレとされる和様の伝統です。

 ところで、一種の木版画ともいえる文様摺りで装飾加工した襖紙を唐紙(カラカミ)といいます。唐紙は当初、中国からの文様摺りに限らないあらゆる輸入紙をさしましたが、後に優美な模様入りの紙だけが「からかみ」と称され、やがて平安時代には国内で模造されるようになります。

 桂離宮古書院の襖や壁紙には、雲母(ウンモ)を使った唐紙が用いられました。そして、この雲母による唐紙は主に〔行〕で用いる仕様です。

 雲母はキラともキララとも呼ぶように、きらきらと白く光って見える鉱物です。唐紙へはこの雲母を細かく砕き顔料として用います。

 こうした、光を受けると輝いて見える雲母の唐紙が、照明の乏しかった頃には光の反射をその機能として備えていた、という見方があります。
すなわち、月への渇仰から月のあかりを効果的に室内へ取り込むことが、桂離宮古書院で雲母の唐紙を使用した理由であるとも考えられます。

 ところで、最近の熊本大学埋蔵文化財調査室の研究によると、縄文時代後期から晩期における九州の遺跡で出土した、緑色の勾玉(マガタマ)や管玉(クダタマ)などの石製装身具のうち約7割は、クロムを含んで緑色に見える白雲母岩でつくられていたそうです。
つまり、それまで翡翠、すなわち宝石の類である玉(ギョク)と思われてきたものが、雲母であったということです。

 このように白雲母が日本で古代から好まれたことも、〔行〕で雲母の唐紙が多用された理由の一つでしょう。

 ちなみに、日本では雲母を巻物裏面のきらびやかな装飾にも用いてきましたが、これは中国の巻物には見られない仕様です。

武家文化はなぜ唐様なのか
 八条宮智仁親王は正親町(オオギマチ)天皇の孫として生まれました。幼少の頃から歌道および古典文学を学び、さらに書・香・茶など諸芸に通じた、この時代の宮廷を代表する文化人です。
また、一時は豊臣秀吉の養子となったことで皇位継承権を事実上失った人でもあります。

 寛永年間には、王朝文化、すなわち和様の復興を目指す和文化の高揚期がありました。これは、寛永宮廷サロンと現在では呼ばれている、当時の京都の宮廷貴族が主導した多彩な文化人の交流により華開いたものです。
その宮廷貴族の中心人物が智仁親王です。

 このような前提において桂離宮を見直すと、その智仁親王の手による建築は、当然のように当時の和様が色濃く現れたものであったでしょうし、それゆえ桂の古書院は当時における和様書院の代表的なものと捉えることができるでしょう。

 ですから、桂離宮の造営は和様を揺り戻そうとする、公家社会の武家文化に対する一つの静かな示威行為であったと考えるのです。

 というのも、当時は朝幕関係がつねに緊張状態にあったからです。つまり、徳川氏による江戸幕藩体制が確立しようとする頃であり、武家を公家の上位に置かんとする意識が極めて高まっていたからです。

そこで、武家にとって頭の上がらない公家文化への対抗手段の一つとして、武家文化へ積極的に唐様文化を採り入れようと試みた事実がありました。
江戸幕府による儒教奨励策には、こうした目論見も一つにはあったことでしょう。

 また、時代劇や時代小説では、武士の口調が独特な表現でなされます。これは武家言葉と呼ぶそうですが、江戸初期、中央集権体制を築いたための全国各地の訛りを解消する必要から、つまり共通語として生まれたそうです。

 ただ、このような特殊な武士語が、やたら漢語調でなされたのも、唐様を意識してのものでしょう。

 以上が、日本文化の中で武家文化が唐様を示す根拠となります。

 なお、鎌倉時代にも同じような事例があります。当時、武家の臨済宗への帰依が多かったのは、禅宗の説く自力本願が武家の気風にマッチしたからとされます。

これに加えて、平安時代の加持祈祷が主であった仏教を信奉する公家中心の文化から脱却するためにも、積極的に禅宗様を取り込んだという事実があったからです。
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2011年06月18日(Sat)
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