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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その10)

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風神・雷神
 江戸時代初期に活躍したとされる俵屋宗達(タワラヤソウタツ)の代表作「風神雷神図屏風(建仁寺蔵)」は、一説に京都の豪商が京都妙光寺再興の際に製作依頼したものといわれます。
これには風神と雷神が鬼の姿で、それぞれ二曲(二枚折り)の屏風へ、風神は向かって右、雷神を向かって左へ立てるように描かれているものです。

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[俵屋宗達 風神雷神図]

 風神および雷神とされる神は、そもそも千手観音の眷属(ケンゾク=従者)です。そして、これら両柱は、他の眷属、二十八部衆とともに古くから尊崇された存在です。
また、風神・雷神はギリシャ神話や中国の神話にも登場します。

 ところで、この2柱が一対で表されるのは俵屋宗達の屏風絵が創始ではありませんが、それまでに決して多くの作例があったわけではありません。
また、なぜ宗達はこの2柱を尊崇されたにもかかわらず、日本オリジナルな鬼の姿で絵画化したのでしょうか。

 雷神は北野天神縁起絵巻の図様から着想を得たといいますが、ここで描かれる雷神は赤鬼です。
これに対し、本図では白鬼で描かれます。一方、風神は緑鬼で描かれています。

 このように日本で最も一般的な青鬼と赤鬼のコンビではなく、なぜ緑鬼と白鬼で表現したのでしょう。
 また、持物の造形性の類似から、鎌倉時代に造られた三十三間堂の風神・雷神像の影響もあるとされますが、こちらは人型ですし、像の向きも異なります。

 こうした疑問に、たとえば風神・雷神は自然現象を擬人化したもので、日本人に馴染み深いことによって信仰の対象になった、と説明されます。
また、風神・雷神をともに鬼の姿で描いたのは宗達の独創であり、緑の鬼と白の鬼の配色と対比は宗達の並外れて優れた色彩感覚のなせる技とされます。

 しかし、風や雷に馴染み深いのは日本人だけではありません。そして、鬼の姿に対する解答も、風や雷が人に災いする存在であったからなのでしょうか。
宗達があえて風神と雷神を緑鬼と白鬼の姿で描いたのは、これらの姿に何かを象徴させたかったはずです。

 鬼とは天つ神に対して国つ神をさすことがあります。また、荒ぶる神や人にタタリをなす存在を意味することがあります。
ですから、風神・雷神ともに鬼の姿で描かれることで、いずれも国つ神、あるいは怨霊神と考えることができます。

 そこで荒ぶる国つ神で、風神と聞いて思い出すのが暴風神、素盞鳴尊(スサノヲノミコト)です(以下、スサノヲ)。
『古事記』によると、スサノヲはイザナギがミソギの際に鼻から生まれたという謂れを持ち、そもそも天つ神系とされるのですが、オオクニヌシがスサノヲの娘をめとることによって国つ神系の祖ともなった性格の定まらない神です。

 そして、スサノヲは後に冥界の王とされたことから、地獄の獄卒(地獄で死者を責める役人)である牛頭天王(ゴズテンノウ)と習合します。
この同一視には、いずれも災疫をもたらす神であるという理由もあります。

 牛頭天王は、もともとがインドにある祇園精舎の守護神であり、京都の八坂神社(祇園社)の祭神です。
ですから、こうしたスサノヲ・牛頭天王に対する信仰を特に祇園信仰といい、祇園信仰も御霊信仰が発展したものといわれます。そして、この八坂神社の社殿もまた朱塗りです。

 なお、仏教説話では鬼が地獄で閻魔の配下として、獄卒の役を務めているとされます。これをもって、鬼はまた地獄の獄卒をさすこともあります。

 一方、タタリをなした怨霊神で、日本史上最も著名な雷神が先述の菅公であり、菅公を祀る京都の天神社は北野天満宮です。
菅公に対する信仰は室町時代に全盛となり、ちなみに菅公の神使(神の使い)は牛とされます。

 さて、これら2柱を祀る両社の位置関係は、京都御所を起点にとれば八坂神社が東南(陽)、北野天満宮が西北(陰)となり、しかも両社は御所からほぼ等距離にあります。
また、両社の社殿は、いずれも南向きで建造されています。

 宗達による屏風絵の風神は1本角(奇数=陽)の緑鬼(緑=陽)の姿で描かれ、向かって右、すなわち東(陽)へ配されます。
また、2本角(偶数=陰)で白鬼(白=陰)の雷神は向かって左の西方(陰)に置かれます。そして、この1本角、2本角による造形は、狛犬に見られる一変型に共通します。
 なお、後述しますが、ここでの緑の鬼は青鬼と同義です。

 したがって、俵屋宗達の創造した風神・雷神は、それぞれスサノヲと菅公を象徴すると考えることができます。しかも牛との相関や、両者とも天神であって天神でないところも共通します。
 天神であって天神でないところは風神が青でなく、あえて緑で描かれているところにも表れていますが、この理由についても後述しましょう。

 さらに陰陽論と符合する点でいうと、渡来神である牛頭天王(=スサノヲ)を向かって右、和人である菅公を左に配したところです。

 つまり、当時は舶来したものが国産のものより格が上だとされていたことから、尚左の思想により渡来神を向かって右へ配したと考えることができます。
これは恵比寿さん・大黒さんの並置にも同じ事情が見られます。

 なお、風神雷神と呼び習わされていますが、陰陽論にしたがい、本来は雷神風神と呼ぶべきものであるかもしれません。

 さて、強大な怨霊は御霊として祀れば強力な善神になると先述しました。ですから、この屏風絵は御霊神の巨大な御利益を期して製作依頼されたものかもしれません。

 あるいは、本図が描かれた江戸時代初期、京の都は多くの天災に連続して見舞われたことがありました。これの鎮静を目的として描かれたものかもしれません。

 荒ぶる神は古くから自然の脅威と、その恩恵をたとえたもの、とされるのも普通です。風神・雷神として描かれたのはこれを象徴するものとして妥当なものがあります。
たとえば暴風雨は作物に被害を与える反面、干魃時には慈雨として、雷は稲妻ともいうように雷の多い年は稲が豊作であるという二面性があります。

 そして、本図に落款(ラッカン=サイン)がないのも本図が礼拝の対象であったからでしょう。
日本で絵画に落款を為したのは室町時代の雪舟が嚆矢とされますが、そもそも礼拝の対象となる書画には雪舟以降も落款が記されません。それは描いた当人が礼拝の対象とならないようにするためです。

 また、風神が阿形、雷神は吽形で描かれていることから、守護神像であることは疑いえません。
つまり、両図は神社に並置されるコマイヌなどと同様、何らかの主体の両脇に置かれていたものであり、離して立てられていたものと考えます。
ですから、両柱の視線がとやかく云々されますが、これには主体を考慮した議論が必要です。

 この主体が何であるかは疑問の残る点ですが、風の向きがヒントになるかもしれません。
それは右方に配される風神の存在にもかかわらず、雷神の纏う襷が左から右へたなびいている点です。
すなわち、風の向きは左から、つまり西からのものであるところです。

 この西からの風は西からの脅威とも考えることができ、これは当時の布教目的で来日した西洋人による国難を想定したものかもしれません。
 もしそうであるなら、この主体はキリスト教の布教におののく宗教に関わるもの、といえるでしょう。

 ちなみに、屏風絵では絵巻物と同様、その時間的推移が右から左へと表現されますが、南蛮屏風(ナンバンビョウブ)では、その逆で描かれています。
 南蛮屏風とは桃山時代から江戸初期の来航ポルトガル人を描いた屏風をいいます。これは現在まで80点余りが知られていますが、そのすべての時間的経過が左から右へと向かっています。

 つまり、左(西)からやってくるものは西洋人という認識が、当時にはあったものと考えます。
そして、蛮もまた、野蛮や蛮族というように、古く中国で異民族を表す蔑称とされてきたものです。

 ところで、残念なことに表具はその性格上、何度も改装されることから想像するしかないのですが、おそらく当初の風神雷神図屏風には赤の椽(フチ)か、あるいは赤地の縁(ヘリ)が周りに巡らされていたのではと考えます。
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2011年06月02日(Thu)
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