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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その17)

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針葉樹
 常盤木を和建築の部材として利用するときは、色を付けるなど加飾を施すことは好まれず、素木(白木)のまま使用することが普通です。

 日本人はこの素木を好みます。これは中国文化に決して見られません。そして、一般に常盤木というのは多く松や一位、また日本固有種である杉など針葉樹をさします。

 榊は広葉樹ですが、榊以外のほとんどの広葉樹が寒い時季には落葉します。このことが日本独特の針葉樹崇拝を生んだのかもしれません。

 たとえば床柱には多く針葉樹が用いられます。この床柱における格の高さを材種順にいえば、いずれも常緑針葉樹である松、檜、栂(別名:ツガマツ、ツガノキ)となります。
他に床柱へは黒檀(コクタン)や紫檀(シタン)といった唐木(カラキ)など広葉樹も用いられますが、これらは寺院での用途が中心です。
また、鳥居の材にも檜や杉が用いられます。

 ちなみに、唐木という名称は、奈良時代に遣唐使が唐の文化とともに当時には珍しい木材と木製調度品を日本へ持ち帰り、これらを総称して唐木と呼んだことがその始まりです。

 唐木は当初、3種であったことから唐三木とも呼ばれます。このうち黒い木が黒檀、朱紫色の木が紫檀と名付けられました。
最後の一つが白檀(ビャクダン)であり、これは辺材を除いては白色でありませんが、前二者に比較すれば白いことから、あえてこう呼ぶようになったそうです。

なお、特に三大唐木と称する場合は黒檀、紫檀、鉄刀木をさし、これらは、いずれも常緑樹です。

 唐木は日本では採れない輸入材のため、またその名称からも知れるように唐様で好まれた材です。たとえば唐木は白檀を除き、真言宗など密教系での仏壇に用いられます。
そして、香木である白檀は数珠などの仏具や仏像彫刻材としても利用されてきました。「栴檀は双葉より芳し」というときの栴檀は白檀の異名です。

 中国の軸装では、かつて白檀が軸木に用いられましたが、日本での軸装では三大唐木をその軸先に用います([図-2]参照)。
これの使用も仏教関係の作品、特に禅語を書作品化したもの、つまり唐様作品に使います。
逆に、神道主題の作品へは、軸先に素木地(シラキジ)仕上げの一位材を用いるのが通例です。

 ところで、神道では神様を数えるのに1柱、2柱というように、柱の単位で数えます。これは神が樹木に宿る、あるいは樹木を使って降下する(天降る)と信じられてきたからです。

 ですから、「主」(=神)に木偏を付けた「柱」で神を数えるようになったといいます。そして、考古学の世界でも柱は原始信仰との深い関連が指摘されています。

 床柱もこのような信仰の心性を受けてか、床の間で最も重要視されるインテリア要素とされてきました。
それは床柱が、これをあたかも本尊とするかのように床の中心に据えられることからも知れます。

 先に「ギ(キ)」は男性神を表すとしましたが、神道における神籬(ヒモロギ)の「ギ」は常磐木を表すという説もあるように、日本では常磐木による柱が神霊の依り付くところ、すなわち依代とされます。

 本居宣長は、その古事記研究書『古事記伝』で「伊邪那岐」の「岐(き)」の字を清濁併用と見なしたため、現在も「イザナギ」という読みが浸透しているといいます。そして、イザナギのギは連濁であるといわれます。
つまり、イザナとキを続けて発音することによってイザナギと呼ぶようになったといいます。

 すると、キの付く木名を持つ、榊や蘭、檜、杉などの「キ(ギ)」も、もしかすると男性神を表しているのかもしれません。
2011年06月30日(Thu)
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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その16)

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Ⅲ-③ 和の特殊な好み

 唐様と和様を比較すると和様の特殊性が浮かび上がります。本節では特に和様で特徴的に見られる好みから和の心を探ってみましょう。

常磐木
 日本では常盤木(トキワギ)が好まれてきました。常磐木は常緑樹のことであり、落葉しないことから永久不変を意味するといわれます。
つまり、いつまでも枯れない(ケガレない)という点で常磐木を愛でたのでしょう。

 かつて神籬(ヒモロギ)へは、この常盤木を植えて囲んだそうです。神道でいう神籬は、神霊の依り付く場所の一つとされるものです。

 さて、神道においては、常磐木の中でも特に榊や一位(イチイ)が好まれます。

 榊は椿科の常緑樹ですが、そもそもは境木(サカキ)の意で神域(神籬)の境界へ植えた、あるいは神に供される榊に限らない常緑樹のことをさしました。

「榊」は「神に捧げる木」を表す国字であり、賢木や神樹とも表記されることがあります。
榊は麻布や紙などを付け神前に供える玉串として用いられ、転じて玉串は榊の異称となります。

 なお、関東以北では榊が生育しないので、榊の代用として類似種のヒサカキを用います。ヒサカキは「姫榊」とも「非榊」とも字が当てられます。

 関西地方では蘭(アララギ)と呼ぶ一位もやはり常緑樹です。
東北北部や北海道ではヒサカキを産しなかったため、一位は榊の代わりに玉串など神事で用いられ、神社の境内にも植えられます。

 この一位とはそもそも最高位という意味です。かつて神官が君命を拝受する際、笏(シャク)という箆板(ヘライタ)を自分の眼前に掲げ、そこへ君命を間違いのないよう書き記しました。
君命は第一位の重要事であり、その君命を記す笏にはかつて一位の木だけが使われたため、この木がイチイと呼ばれるようになったそうです。

 一位は天皇が即位されるときの儀式に用いる笏の材料にも使用され、また古くから御神体や仏像の彫刻材としても用いてこられました。

 ただ、その赤い果実は甘く食用になり、これを漬け込んだリキュールも楽しめますが、種子はタキシンという毒性の強いアルカロイドを含んでいます。ですから、種子を誤飲すると中毒を起こし、呼吸困難で死亡することさえあります。
つまり、先述の梅干と同じ構造です。

 ちなみに、古くヨーロッパでは、一位には埋葬された死者の出す毒性の発散物を吸収する力があるとされ、多く墓地に植えられたそうです。
そして、火葬で使用する薪にも使われてきました。

 日本で同じような役割を果たす植物に常緑高木の樒(シキミ)があります。樒は仏前草とも呼ばれるように、仏教の慣習、特に仏事における供養と結びついた植物です。

樒は全体にアニサチンなど有毒成分を有しており、特にその含有量の多い実は「悪しき実」と呼ばれ、これが樒の語源になったといいます。

 この樒が主に関西地方で仏前や墓前で用いられるのは、実際的な理由があります。

樒は墓地に植えたり、その枝を墓前に供えます。これは先述の彼岸花と同様、かつて野生動物などの墓荒らしから、土葬されたご遺体を守るためです。

 また、樒にはその毒性を利用して、棺に葉を敷き死臭を緩和させる、その樹皮や葉からつくった仏前の焼香に用いる抹香(マッコウ)も死臭を清めるといった効用があったからです。
 「抹香くさい」というのは、これの薫香をさし、ちなみに樒はわが国特有の香木です。

 これが転じて「樒を死者の近くや墓に供えると悪霊がよりつかない」とされ、たとえばその一枝を枕飾の一つ、枕花(マクラバナ)として用います。
つまり、樒には毒気があるが、その香気で悪しきを浄めるという二面性を期するものとして利用されてきました。

 関西地方での葬式では、樒が供花として式場の周りを取り巻くように供えられます。これは樒の有毒性を利用して、主体(ご遺体)の都合の良くない変化を抑えるために用いられたと考えることもできます。
樒の一葉が末期の水をとる際に用いられるのも、こうした意味があるかもしれません。

 なお、かつて樒は榊と同様、神事に用いられたといわれます。それゆえ、榊に対し樒を仏(佛)に捧げる木という意で「梻」という国字で表したこともありました。

 ところで、木ではありませんが、常磐木と同じく一年を通して緑の葉をたたえる植物に笹があります。

七夕祭や恵比寿祭などで多用されることからもわかるように、笹は霊性を宿し、厄除けの力があると信じられてきた植物です。それというのも、笹の年中不変なところからでしょう。

 東京の湯島聖堂や大阪の少彦名(スクナビコ)神社で行われる、医薬の祖、神農(シンノウ)を祀る「神農祭」には隈笹(クマザサ)を神前に供えるのが慣わしになっています。
それは隈笹が悪霊をハラうとされているからです。

 隈笹の葉は、押し寿司や笹団子、また端午の節句で食する習慣があるチマキに使われます。それは隈笹に古くから防腐・抗菌作用のあることが知られるからです。
ですから、隈笹は漢方薬や民間薬としても使われます。

 常緑であるということに限らず、案外こうしたことが笹に霊性を見出してきた由縁でしょう。
また、先述の折敷(オシキ)にも原初は隈笹のような葉身幅の広い笹を用いたのかもしれません。

 隈笹は、その葉が越冬するときに縁が枯れて白くなる、つまり隈取りになることがその名称の由来です。
そして、笹のなかでも特にこの隈笹が重んじられたのは、その葉が縁のみ枯れることから、つまり陰陽の和合を有しているからかもしれません。

 しかし、笹とよく似た竹は、神事で主役を務めることがありません。日本の竹類はほとんどが中国渡来であり、これに対し笹が日本原産のものであるからか、竹の葉はその代用であることが多いようです。

 笹と竹は混同して用いられますが、これらの相違は一般に丈の長短だけでなく、茎を包む鞘にあります。
竹の茎、つまり竹稈(チクカン)は当初こそ鞘に包まれますが、成長すると鞘は基部から外れて茎が露出するのに対し、笹は茎を包む鞘が剥がれず枯れるまで残ります。

 こうした竹稈自体も依代となることはありません。地鎮祭に用いる斎竹(イミダケ=忌竹)も神籬を囲うものであり、門松にしても依代の対象は松です。
2011年06月29日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その15)

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菱餅とヨモギ
 雛祭りには菱餅がつきものです。菱餅は上から赤(紅)・白・緑の構成で、これは草餅の上に紅白の餅を置いたことに由来するともいわれています。

 赤い餅は解毒作用のある山梔子(クチナシ)で赤味をつけます。菱の実を入れた白い餅は、血圧低下などに用いる薬膳にしたといわれます。
緑の草餅は当初、咳止めや内臓などに良いとされる母子草(ゴギョウ)の草餅でしたが、後に増血効果がある蓬(ヨモギ)を使ったといいます。

 なお、紅白は毒などタタリを抑止する効果があると信じられてきたものです。これまでの流れでいえば、母子草あるいは蓬が毒を持つといえるのですが、これらは有毒成分を含みません。

 むしろ、フグに蓬の葉を添える料理店があるように、(実際はそうではありませんが)俗に蓬を食べるとフグの毒にあたらないと言い習わされます。
これは蓬の持つ精油成分やクロロフィルに殺菌力があり、そうした効用が古くより知られ民間薬として用いてこられたからです。

 今日でも、民間の伝承料理には蓬の生葉がさまざまな形で使われます。また、ケガをしたら蓬の葉を揉んでつけると治るといわれ、蓬は外用薬としても用いられてきました。

 こうした蓬は端午の節句で菖蒲と一緒に軒下へ差し、魔除けにすることもありました。これも蓬の殺菌力を基に生まれた風習でしょう。

 ただ、現代においても食中毒被害を生む、鳥兜の新芽と蓬のそれが似ている、あるいは草餅に用いるような野辺の草には毒を有していて、しかも食用草に似た雑草が多いといったところから、有毒な成分は含まれませんよという安全を担保する意味で草餅の上に紅白の餅を重ねたのかもしれません。

 さて、いずれにしても菱餅に用いる植物は全て薬草であることから上巳本来の行事の意味に合致する、というところが菱餅における配色の一つの根拠なのでしょうが、それでは菱形にしたのはなぜなのでしょうか。

 これには宮中で正月に食される菱葩餅を起源とする説があります。
また、菱の繁殖力の高さから子孫繁栄と、中国に菱の実だけを食べて長生きしたという仙人、鳧伯子に因み、長寿の願いを込めて菱形にしたという説があります。

 ですから、先合菱文様を雛図に用いるのは、桃の節句が女子の祭りだからという理由の他に、菱形が古来、子孫繁栄と長生を寓意するからでしょう。

菱形に見る唐様と和様
 江戸初期の茶人、小堀遠州は五三の比を常用したといいます。この5:3は黄金比(1.618…:1)に近似する整数比の一つです。そして、遠州は菱形を好んだといいます。

 紋章上絵師でもあった小説家、泡坂妻夫の『家紋の話』によると「(江戸時代の)上絵師は長年の勘によって、一番美しい菱」形の鈍角は正五角形の内角に等しいもの、としています。

 正五角形の一辺とその対角線の比は黄金比であり、すなわちこれから得られる菱形の一辺とその長手の対角線も黄金比に等しくなります。小堀遠州が好んだ菱形はこれをさします。

 黄金比は洋の東西を問わない理想のプロポーションとされており、作庭など建築や芸術に無類の才を発揮した遠州の審美眼は、こうしたことからも卓抜していたといえます。
そして、遠州の仕事には諸処に黄金比が見てとれるといいます。

 ところで、正六角形の対角線を結ぶことによって生まれる、正五角形のそれに比べると少し拉(ヒシ)いだ菱形もあります。
これは篭目紋のように正三角形を二つ合わせることによっても得られます[図-15]。

img15.gif

[図-15:正五角形と正六角形から生まれる菱形]

 菱餅や先合菱文様に見られる菱形は、こちらのタイプの菱形です。すなわち、有職文様に多く見られる菱形がこの正六角形から生まれたものであり、こちらの菱形が公家に好まれたものといえます。
また、この菱形は先述の麻の葉紋を構成するものです([図-8]参照)。

 ところで、小堀遠州は茶を千利休に学んだとはいえ、そもそも武人です。そして、利休亡き後は武家(〔真〕)の側に立った茶道の確立に力を尽くします。
 したがって、正五角形より生まれる菱形が唐様、正六角形からつくる菱形を和様と考えることができます。

 ちなみに、正五角形の対角線が一筆書きによって生まれる星形を中国で五芒星と呼びます。
これは先述の五行相克の関係を表現しているといわれます([図-13]参照)。
2011年06月28日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その14)

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桃の節句
 桃の節句の起原は平安時代に遡り、節日の中の一つ、上巳が後に桃の節句となります。
このころ上巳の節日には野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のケガレをハラって健康と厄除けを願ったそうです。

 また、桃の節句は、紙や草でつくった「ひとがた(ひいな)」という人形に己のケガレを移して代役とし、この形代を川や海に流して身の災厄をハラった日本の伝統行事に因みます。
この風習を「流し雛」といい、これと平安貴族の子女が親しんだ「ひいな遊び(人形遊び)」とが結びつきます。

 室町時代には三月三日に定着し、やがて雛飾りを行うようになります。

この三月三日は中国で西王母(セイオウボ)の誕生日とされます。中国でのこの日は蟠桃会(バントウエ)と呼ばれ、西王母を祀る廟では今日でも不老長寿を願う多くの参詣人で賑わうそうです。

 西王母は中国西方の崑崙山に住むとされる、道教で古くから信仰されてきた女仙です。
そして、西王母は蟠桃と呼ばれる仙桃を管理するといわれ、この蟠桃を食すれば不老不死の仙人になれると信じられてきました。

ですから、日本での桃の実図の作例は少ないのですが、中国では桃の実図を吉祥の図柄として喜びます。

 ところで、日本ではこの桃の節句に、雛壇がなければ雛図を床飾りとして用います。雛図は人形姿の男雛と女雛を絵画化したもので、その中には「桃背負い」、すなわち男雛と女雛の上方に枝付きの桃花が描かれたものもあります。

 『古事記』には、黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)という、この世とあの世の境でイザナギが追いかけてきたイザナミを退けるために桃の実を投げつけたという神話があります。
これは桃が邪気を払い生を招く果実だとする、古代の中国や朝鮮の道教的な俗信を下敷きにした話といわれます。

 ちなみに、桃の木を剣形にしたものは、道教の邪気除けの儀式において欠くことのできないものとされます。

 ですから、雛図に桃花が描かれるのは季節性、あるいは桃の女仙を考慮しただけでなく、桃に悪鬼をハラう力があると信じられてきたからであり、桃の節句の厄除け思想に合致したからです。

 ところで、人形姿の雛図を表具するときには、大和錦(ヤマトニシキ)と呼ぶ赤地の錦織物や赤地の金襴を作品周りへ配することが表具師に口伝されています。
これはアカが女性の性色であるという理由ではなく、そもそも雛(ひいな)が形代としてケガレを負った存在であるからでしょう。

 さらに、赤地織物のそのまた周りには花菱を組み合わせた先合菱文様を有する織物を慣用します。

 先合菱は有職(ユウソク)文様の一つであり、女子の装束であった単(ヒトエ)に好んで用いられた文様です。
これは大小の花菱を規則的に組み合わせた文様で、花菱とは4弁の花紋を菱形に表現したものです。

また、先合菱は先合(さきあい)にかけて幸菱(サイワイビシ)と呼び、武田菱(タケダビシ)とも俗称します。これは甲斐武田氏の紋所が四割菱(ヨツワリビシ)であったことに由来します。

 なお、有職は「ゆうしょく」とも読み、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識をいいますが、有職文様は平安時代以来の公家階級で装束・調度などに用いられた伝統的文様をさします。

 それでは、なぜ公家女子の装束に多用された文様を雛図に用いるのでしょう。

それは上巳がそもそも公家の専らとしたマツリゴトであり、雛遊びが公家子女の遊びごとであったからです。

 こうした性格を反映して、江戸時代後期には「有職雛(ユウソクビナ)」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れます。
さらに、これが今日の雛人形につながる武家風の「古今雛」を生みますが、いずれにしても雛人形は、宮中における天上人の平安装束を模したものです。

 ただ、雛祭りが女子の行事として定着したのは、もう一つ理由が考えられます。それは和様=公家=女という〔行〕の性格を強く打ち出したいという朝廷や公家の欲求です。
 そして、もちろん端午の節句を武家が仮借したのは、逆の唐様=武家=男といった〔真〕意識の表れです。

これは、いずれの節句飾りも室町から江戸にかけて盛んになったことからもわかります。

 あるいは、陰がなければ陽は存在しないとする、武家側の都合によるバランスの維持が目的だったのかもしれません。

 なお、端午の節句は、田植え前に早乙女たちが田の神のため、社などに籠もってケガレをハラい清めるといった厄払いの行事であり、元来が女子の祭りであったといいます。
2011年06月27日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その13)

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端午の節句
 端午の節句は古くから邪気、災厄をハラう行事とされてきました。

端午とは端が初めという意味であるので、月の最初の午(うま)の日をさしました。それがのちに「午(ゴ)」と「五(ゴ)」の音通から、端午の節句が五月五日となります。

 端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれるように、この日には邪気をハラうとされた菖蒲を浮かべた風呂、すなわち菖蒲湯に入るのが慣わしです。
菖蒲湯には芳香のある根茎を用い、これはまた漢方薬としても利用されます。

 そして、この菖蒲(ショウブ)が尚武(ショウブ)に音通するところから武家の祭りに仮借されます。
ですから、江戸の後期にもなれば端午の節句には甲冑や武者人形が飾られてきました。また、掛軸においては若武者図だけでなく、金太郎図も端午の節句の床飾りに用いられます。

 この金太郎は鯉にまたがり急流を上ったことを由縁に五月人形の一つとされます。それは、「のぼり鯉」を漢語風に書けば「昇鯉」であり、これを勝利にかけたからです。

 また、のぼり鯉が江戸時代の武家の好んだ登龍門伝説を思い起こさせたという理由もあります。
逆に、金太郎が鯉で遡上した謂れは、そもそもこの伝説を下敷にしているのでしょう。

 登龍門伝説とは、中国の黄河上流に龍門と呼ぶ滝があり、この瀑布を登った鯉は龍になるという道教の古い言い伝えです。
 これをなぞらえて、かつての中国の難関な官吏登用試験、科挙(カキョ)の試験場には「龍門」の二字が掲げられ、この試験に及第することを「龍門に跳ねる」といいました。

 こうした謂れから鯉が出世魚とされ、古くから和漢ともに川魚の王として尊ばれてきました。
たとえば日本では、先述のように海水魚の流通が未発達であった頃、最も格が高いとされた鯉が宮中の行事食として用いてこられました。
さらにいえば、俎上の生魚の様子が男子の度胸に通ずるものとして、鯉は武家でも特に尊重されてきた魚です。

 江戸時代初期には武家でも町家でも7歳以下の男子のいる家では鍾馗(ショウキ)の幟(ノボリ)を戸外に立て、毒虫が集まるといわれた端午節の無事を祈願しました。
これへ出世魚である鯉の紙形を付けるようになり、これが鯉幟の祖形になったといいます。これには、もちろん「(滝)登り」と「幟」の音通もあります。

 ところで、鍾馗とは道教の降魔神(ゴウマシン)です。そして、中国の鍾馗図は多くコウモリとセットで描かれます。
というのも、鍾馗が、中国では福を暗示するといわれるコウモリの招来を促す、あるいはコウモリを叩き落として幸福(降蝠)を招くと信じられているからです。

 鍾馗図は日本でも古くから縁起物とされてきましたが、関西ではこれを飾ることが少ないようです。
それは江戸時代に、関東=武家文化(唐様)、関西=公家文化(和様)という棲み分けがあったからかもしれません。

 「東男に京女」という成句も、このことを示しているのでしょう。
あるいは、これが「よい組み合わせの例」とされるのは、東(陽)と男(陽)、京(西=陰)と女(陰)という、陰陽和合による理由もあると考えます。

 江戸時代の文化や社会の発展は、こうした陽(唐様)と陰(和様)との対立と融合によってもたらされたのかもしれません。

 ちなみに、コウモリは漢字で蝙蝠と書きますが、中国では蝙蝠が蝙(biãn)≒遍(biàn、あまねくという意)という音の類似、そして蝠(fú)=福(fú)という音通によって、あまねく福(すべてが幸福)、あるいは福が飛んでくるという意味を示し、吉祥とされます。

 しかし、日本ではあまり良い意味で使うことは少ないようです。
たとえば「鳥無き里の蝙蝠」といった成句は、鳥、すなわち優れた者や強い者のいないところで、つまらない者(空を飛べる蝙蝠)が威張るという意味です。

 また、コウモリは狂犬病等の人に感染するウィルスを持っていることから、つまりケガレを備えていることから、不浄な生き物としてきたからかもしれません。
そして、日本でコウモリを神としたことがないのは、コウモリに有用性を見出さなかったからでしょう。

 こうした理由からか、日本では絵画の主題に蝙蝠をあまり採用しませんし、鍾馗図にも中国のそれと異なり、蝙蝠が描かれることはほとんどありません。
2011年06月26日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その12)

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唐様の吉数から成立した五節句
 五節句(五節供)と呼ばれる式日にもまた、「五」という唐様におけるハレの吉数が用いられています。

 節句とは、もともと中国から入ってきた古いしきたりから起こったものです。この五節句には人日(ジンジツ=正月七日)、上巳(ジョウシ=三月三日)、端午(タンゴ==五月五日)、七夕(シチセキ=七月七日)、重陽(チョウヨウ=九月九日)があります。

 節句を古くは節日(セチニチ)といい、節日には朝廷において節会(セチエ)と呼ばれる宴会が開かれました。
そして、数ある節日のうちの五つを江戸幕府が季節ごとの重要な式日として定めたのが五節句です。

 これらは主に奇数の重複、すなわち陰陽五行思想にしたがって、「陽」の重なりが重要視されて生まれた習俗です。
特に重陽は、その名称にも反映しているように一桁の数字の中で最大数の、陽の極とされた「九」の重なりです。

 重陽の節句は季節柄、菊の節句とも呼ばれます。この節句には邪気をハラい長寿を願って菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝います。

 ところで、なぜ菊が長寿の願いを負うのでしょうか。
それは酈県(リケン=現、河南省)にあるとされた甘谷(カンコク)と呼ばれる川に菊が落ち、その川を常用する人に長命な者が多かったからという中国の古い伝承に因みます。

 どうしてこのような伝説が生まれたのかといいますと、紀元前1世紀頃、周の穆王(ボクオウ)に仕えた慈童(ジドウ)が『法華経(普門品)』にある2句の偈を唱える精進のため、この偈を備忘に甘谷の端に咲く菊葉に記したそうです。
その後のある日、慈童がこの菊葉から下露が滴り落ちた甘谷の水を飲んだところ不老不死の仙人になったからといいます。

 ちなみに、この偈が「具一切功徳 慈眼視衆生、福聚海無量 是故応頂礼」であり、これは摘句され禅語として頻繁に書作品化されます。
ですから、これらの書作品も長寿の吉祥意を、その裏に示します。

 そして、この故事が絵画化されたものは「菊慈童図」といい、また「菊慈童」は能楽の題材にも採り入れられています。

 このようにして菊に道教と仏教の二つの要素が取り込まれ、和漢ともに菊が延命長寿のシンボルとなります。

 さて、重陽の節句は中国で最も重要とされたにもかかわらず、現在の日本では宮中を除き、ほとんど行われていません。
それは「九(く)」の重なりを嫌ったという理由もあるでしょうが、端午と桃の節句、および七夕が、日本の古習俗と強く結びついたものであり、他の節句といささか意味が異なるからです。

 かといって、これらの3節句が日本の古習俗だけで成立しているのかというと、そうではありません。

七夕
 たとえば、かつての七夕はそもそも仏事であった盂蘭盆会(ウラボンエ)の一環習俗であり、かつ豊作を祖霊に祈る前のミソギの神事でもありました。

 なお、「お盆」ともいう盂蘭盆は、一般に祖先の霊を供養するという儒教的な行事です。
そして、七月の始めは方角でいえば裏鬼門に当たる時期であり、このとき祭祀を行うのはやはり陰陽の二気が逆転して気が不安定になると考えられていたからでしょう([図-3]参照)。

 「盆も正月もない」という慣用句は忙しくて休暇も取れないさまを表すものですが、盆と正月が対比されるのは、いずれも第1章に述べた「時」における鬼門であるからです。

 七夕(しちせき)を古くは「棚機(たなばた)」とも表記しました。それは日本在来の棚織津女(タナバタツメ)の伝説と習合したからです。
七夕を「たなばた」と発音するのはその名残りです。

 また、七夕はややこしいことに、女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(キッコウデン)という中国の行事が奈良時代に伝わり、いつしかこれとも習合します。
乞巧奠は「巧みであることを乞う女の祭り」であり、道教伝説に見られる天帝の娘、織女(ショクジョ=おりひめ)と、牛飼いの牽牛(ケンギュウ)の物語が元になったものです。

 以上のように七夕は、和漢のいくつもの習俗や伝説が一体となった総合行事です。そして、七夕はこうした理由で陰陽和合の一つの顕れと考えることができます。

 ただ、笹に色紙(イロガミ)や短冊をつけて軒先に立てるといった笹飾りは、江戸時代になってからといわれる日本独特の風習です。
そして、七夕に用いる笹は精霊(祖霊)が宿る依代が起源だと考えられています。

 この笹飾りで用いる「五色の短冊」の色は、一般に青、赤、黄、白、紫です。黒の代わりに紫が用いられるのは、おそらく七夕が多く道教説話と日本の神話に因むものであるからでしょう。

 ところで、かつて宮中では節日に赤飯が食されたといいますが、七夕、および端午と桃の節句はケガレをハラうという点で強く共通する節句です。

 七草の節句ともいう人日にも、邪気を払い万病を除く占いとして七草(七種)を食べる風習がありますが、これは古くに中国で「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた羹(アツモノ)を食べて無病を祈る習慣が元になったといいます。

 また、俗に七草を食べるのは御節料理で疲れた胃を休める、あるいは野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うためともいわれます。

 さて、つぎには端午と桃の節句について、唐様-和様の構図を探ってみましょう。
2011年06月25日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その11)

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四のタブー
 同じ偶数でも「四」は「死」に音通することからタブーとされてきました。これには五目並べ(あるいは連珠)で「四四」を禁じ手にするなど多くの例が挙げられます。

 表具でいえば「四曲屏風が仕舞い(四枚)に通じるとし、つくるものではない」と表具師は口伝されました。
また、江戸時代に切腹屏風と俗称された、切腹の際に背後へ立てる屏風も四曲(四枚繋ぎ)の白貼屏風(シラハリビョウブ)です。

 さらに絵画の主題でいえば、日本で虎など獣類を描くときにも「四」のタブーが見られます。

四つ足の獣は必ず3本足で表現され、つまり足の1本が隠れて見えないように描かれます。
二羽の水鳥や鶴が立ち姿で並置されて描かれるときも、いずれかの足の片方を折り曲げ、あわせて3本の足しか描かれません。

 ところで、明治以前まで日本では四つ足の獣類を食することが禁忌とされました。
これは天武天皇による肉食禁止令以来の伝統とされますが、それにはやはり「四」のタブーも潜んでいるのでしょう。
また、血(赤不浄)に対する恐れもあったことと思います。

 このタブーを堅固なものにするため、念入りなことに四つ足の食肉獣を総じて「しし」と呼び、「し」の重なるものとして長らく忌んできました。
たとえば鹿を「かのしし」と呼んだことがそうです。

 しかし、「いのしし」は畑を荒らす害獣として、たびたび狩られたことがあったからか、秘かに食する者も多かったようです。
このとき罪悪感を薄れさせるため、猪肉(シシニク)を鯨肉と食味が似るところから「山鯨(ヤマクジラ)」と呼んだことがあったといいます。

 この鯨は古名を「勇魚(イサナ)」というように魚とみなされてきました。
また、鯨は先述のように神と奉られたことから、山鯨という呼称は一種の嘉語でもあったのでしょう。
この山鯨は猪に限らず獣肉一般に用いられることもあります。

 猪肉は「牡丹肉」とも呼ばれます。この「牡丹」という用語は特に肉食(ニクジキ)が禁じられていた僧侶が江戸時代に使った隠語ともいわれます。

 兎も四つ足ですが、長い耳を羽に見立て、その耳を掴んで持ち上げることで、二本足の鳥を装って食したといいます。
兎は一羽、二羽と、鳥に用いる助数詞「羽(ワ)」で持って数えるのは、その名残なのかもしれません。

 ところで、なぜ猪を牡丹と呼んだのでしょうか。

それは猪の肉が牡丹の花の色に、削いだ身が牡丹の花弁に似ているからだと説明されますが、これはおそらく古代中国の伝説に由来してのものです。

 中国で獅子は牡丹を愛で、そして食すると伝えられます。ですから、獅子は多く牡丹と組み合わされ、いわゆる唐獅子牡丹(カラジシボタン)として図案化されます。

 日本では同名の歌謡曲のヒットにより、ダークサイド的なイメージが未だ強いのですが、陰陽論では動物が陽、植物を陰とします。
そこで、唐獅子牡丹を獅子=男性、牡丹=女性と解釈すると、それぞれが公と私、つまり義理と人情を表すことになります。

ですから、「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界…」と始まる「唐獅子牡丹」の命名の妥当性にはうなずけるものがあります。

 ただ、唐獅子牡丹は本来が百獣の王である獅子と、百花の王とされる牡丹という、豪華で吉祥の意を多分に持つ組合せです。

 獅子は中国で瑞獣とされてきました。そして、そもそも獅子は架空獣であり、中国に伝えられたライオン図像に、想像を加え空想上の生き物にしたものが唐獅子といわれます。

 このデフォルメされた獅子を表現する獅子文は魔除けや家位栄達を示します。
獅子を魔除けとするのは、一つに獅子が密教では菩薩の三昧耶形(サンマヤギョウ)とされているからです。三昧耶形とはこの場合、獅子が菩薩を表すシンボルという意味です。

 このように中国由来の獅子は唐様と見ることができ、先述の狛犬が日本独自のものであることから狛犬を和様とすることができます。
獅子・狛犬も向かって右へ獅子、左に狛犬が配されます。そして、両者をコンビとしたのは陰陽和合を図ったものであるからでしょう。

 なお、狛犬を角のある造形にしたのも、何とかして獅子と区別したいが故のことであったのかもしれません。

 さて、獅子と牡丹の組合せは絵画や文様以外に、たとえば歌舞伎十八番の一「春興鏡獅子」で見られます。
これは牡丹を背景として急調子で踊る獅子の舞の場面であり、この舞はお祝い事の舞として知られています。

これは伎楽、舞楽、太神楽(ダイカグラ)などで行なわれる唐から伝わった日本の獅子舞が、こうした吉祥の意を負うものであるからです。
また、日本での獅子舞は五穀豊穰の祈祷や悪魔を払い清めるものとしても、各地の祭礼行列で行なわれています。

 したがって、猪肉を牡丹肉と呼ぶのはやはり嘉語の表現、すなわち猪(いのしし)を吉祥的に獅子(しし)と見立てたからでしょう。

 ところで、牡丹は蝶との組合せも多く見られます。これは唐の文宗の時代、宮中で牡丹が満開になり黄白の蝶が群がってきたので、それを捕まえるとすべて金になったという伝説や、荘子が夢で胡蝶となり牡丹に戯れたという故事に基づいてのようです。
これらのことから、逆に「牡丹に蝶」の図柄は獅子を表すことがあります。

 ちなみにいえば、花札での猪鹿蝶(イノシカチョウ)の役は蝶を獅子に見立て、いのしし(猪)・かのしし(鹿)・しし(獅子)の三ししとなることから成立するのでしょう。

ニンニクと山葵
 以上のように、かつて日本では獣類をさほど食することがなかったので、食肉の臭みを消すためのニンニクを料理に使う習慣がありませんでした。

 あるいは、これを仏教の戒に求めることができるかもしれません。仏教では酒と肉食、そして五辛を禁じています。
五辛を具体的にいえば大蒜(ダイサン=ニンニク)、茖葱(カクソウ=ニラ)、慈葱(ジソウ=ネギ)、蘭葱(ランソウ=ノビル)、そしてもう一つが日本にはない興渠(コウキョ)です。

 しかし、ニンニクやニラはともかく、酒やネギなどを考えると、すべてがすべて仏教の戒が由来だとするのはやや不自然です。

これは、やはりニンニクによる強烈な口臭、あるいは獣肉食に伴うニンニク臭をもケガレと見た、と考えるのが妥当でしょう。
日本では江戸時代、公家や武士階級ではニンニクを食べることが禁止されていたといいます。

 日本人は臭いに敏感な民族だといわれています。欧米人に比べ、ほとんど体臭が感じられないということも、その理由の一つとされます。

 ただ、体臭の少なさは日本人に限らず東洋人全般の体質ですが、死臭を極端なまでに嫌ったことや、日本独自の芸事である香道の発達などから知るその嗅覚の繊細さは、やはり日本の高温多湿な、つまり腐敗や発汗を生みやすい環境風土に根差すものでしょう。
日本人が風呂好きであるのも、この点にあります。

 ところで、日本料理でニンニクを使うのは「鰹のタタキ」だけであるといいますが、獣肉食を行う国でのほとんどの料理には、ほぼ100%ニンニクが香辛料として使われます。

 こうしたニンニクを調理に用いる国では、魚肉の臭みを緩和するにもニンニクを用いてきましたが、生臭(ナマグサ)を好む日本では魚を生食してきた歴史が長く、これを古くから山葵(ワサビ)で食してきました。

 学名をWasabia japonicaというように日本が原産の山葵は、海外で日本食ブームの今日、日本を代表する香辛料として世界的にも認知度が高いものです。

 清流でのみ自生する、あるいは栽培される山葵は、食中毒を防ぐといった殺菌効果を持ち、しかも魚介類に寄生する線虫、アニキサスの幼虫に対する抗虫作用があります。
アニキサス幼虫は人の胃壁で成虫になり、激しい腹痛を引き起こします。そして、このアニキサス幼虫は60℃以上の火を通すか、-20℃以下で冷凍しない限りは死にません。

 すなわち、山葵はあくまでこの場合、アニキサス幼虫の活動を抑制するために使用するのですが、生山葵を(醤油に含まれる)食塩と併用すればその効果が高いといいます。
したがって、この山葵醤油を使用すれば、アニキサス幼虫は便とともに体外へ排出されやすくなることから、山葵醤油は刺身や寿司になくてはならないものです。

 日本人の生臭好きが山葵のこうした効能を発見し、かつ調理に利用してきたのでしょうが、これにも清流、すなわち清い水と結びついたケガレをハラう構図が見えます。

 また、アニキサスはそもそも鯨やイルカなど海にいる哺乳動物の胃壁に寄生する線虫です。
このアニキサスが人に禍をなすことが経験的に知られていたからか、今日のような冷凍技術がなかった昔は、たとえば『勇魚取絵詞(1829年)』の別冊、「鯨肉調味方」にも記されるように鯨のワタを決して生でも塩漬けしたものでも食べる習慣はありませんでした。

 これが先述した鯨をヱビスとした理由の一つかもしれません。すなわち、鯨も祀られた国つ神と同じように、豊かさを約束する反面、タタリを為すといった二面性を有しているからです。
また、捕鯨の際に命を落とす漁師が多かったことも、その理由の一つでしょう。

 なお、これまでの諸例から類推すれば、二面性を持つのは天つ神以外の神に限定されるといえるかもしれません。
2011年06月24日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その10)

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Ⅲ-② 吉数

 唐様と和様では吉数も異なります。一言でいえば唐様では奇数、和様では偶数を吉数としています。

 唐様で吉数を奇数とするのは陰陽五行の影響です。
これは奇数が陽、偶数を陰とするからであり、奇数を偶数より格上とするのは先述の「尚左」思想と連動しているからです。

したがって、儀式などあらたまったハレの場で用いる数字は特に七、五、三が多く見られます。

 なお、最高の陽数とされる九が、日本でハレに用いられることが少ないのは、「九」が「苦」に通じるとした言霊によるものでしょう。

 さて、五に関わる事物が五行説を由来とするのはもちろんのこと、たとえば日本料理で式正の膳立とされる本膳料理での献立に見る一汁三菜や三汁七菜、結婚式での三三九度、また命名の儀を行う「お七夜」や子供の成長を祝う行事「七五三」など、奇数をハレの数字とする例は枚挙にいとまがありません。
 さらに「注連縄」を「七五三縄」と表記することがあるのも、シメナワが式正の場面で用いられることを反映しているのでしょう。

 ちなみに、古代中国では0(ゼロ)の考え方はなく、したがって陰陽論で奇数が陽、偶数を陰とするのは、1が始まりで2がこれに次ぐからです。
たとえば数え年での年齢は、生まれてすぐが0歳ではなく1歳とするのも、0の概念がそこにないからです。

和様の吉数-「八」
 一方、和様では偶数のなかでも「八」と「六」が好まれます。これには道教の考え方が強く反映しています。

 なお、今日でも中国の民衆の間では、「八」と「六」を縁起の良い数字として喜びます。
中国は唐様の本家本元なのですが、これは道教思想が民衆の間で深く根付いているからでしょう。

 さて、まず「八」を好むのは、八角形が道教思想において宇宙観を示しているといわれるからです。
法隆寺の夢殿が八角形であるのも、聖徳太子が道教思想を多く受容したゆえのことでしょう。

あるいは、正八角形が陰陽和合を表していると考えられるからかもしれません。これについては後述します。

 この陰陽和合についていえば、十七条憲法の「十七」という素数の謂れは、『維摩経』にある菩薩の心事十七項目に因んだものとされますが、聖徳太子が陽の極大数「九」と陰の極大数「八」を和して陰陽和合を表したという説もあります。

 なお、「和」をモットーとした聖徳太子が建立したとされる四天王寺の寺紋は、二つ巴紋であり、これは陰陽魚太極図に近しいデザインのものです(陰陽魚太極図→[図-1]参照)。

 さて、いずれにせよ道教の色濃い影響を受けた神道においても八角形は最高の格式を持つとされ、これが由縁して「八」が神数とされます。

 たとえば八百万(ヤオヨロズ)の神がみのみならず、三種の神器である八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)や八咫鏡(ヤタノカガミ)、あるいは君が代の歌詞にある八千代など「八」は神道にとって重要なナンバーです。
そして、『古事記』にも、それこそ「八」のつく事物がごろごろと記されます。

 そもそも「八」は「弥(いや)」という語と同源で、弥は「大きい」または「数が多い」、あるいは「幾重にも重なる」といった意を表します。
そして、日本では古くから、たとえば弥重歯を八重歯と書くように「弥」に「八」の字を当ててきました。

 また、「や」は「弥」の意味から発展し、古語で「おめでたい」という義をもつ接頭語とされました。

ですから、「八」は「大きくて(あるいは数が多くて)めでたいもの」という意味になるでしょう。

 しかし、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)といった使用法から見ると、「弥」に悪気や祲兆(悪い兆し)の意もあることからか、はたまた御霊信仰の観点からか、「畏れ」あるいは「畏れおおいもの」をも表したのかもしれません。
あるいは、歴史に語られるスサノヲの性格を考えると、そもそも八岐大蛇は天つ神系であったとも考えることができます。

 ところで、神への御供え物(神饌)を盛る容器のことを折敷(オシキ)といいます。
これは古に木の皮や葉などの隅を折り敷いて食器の代用としたことからの名称といわれ、今日では「衝重(ツイガサネ)」にその名残が見られます。

 衝重とは片木(ヘギ=檜の素木)を折り曲げて底に足を付けた台、すなわち足打折敷(アシウチオシキ)をさします。なかでも、この足の側面三方に孔が空いているものが三方(サンポウ)と呼ばれます。

そして、この衝重を上方から見ると、八角形または四角形をしています。
 後者を特に傍折敷(ソバオシキ)ともいいますが、「傍」が本筋からそれたところという意味であることから、八角形がより格上とされます。

 さて、神紋として多用される折敷紋は、この八角形を写し取ったものといえ、ここにも八角形を尊ぶ思想が見られます[図-14]。

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[図-14:折敷紋]

 また、天皇家の御家紋は十六弁八重菊です。鎌倉時代、後鳥羽上皇が特に菊を好まれ、菊紋は爾来変遷を経て皇室専用の紋章となりました。
そして、この菊を八重菊としたのは八角形を尊貴な形としたところにもよります。

 表具では、かつて天つ神系の作品を軸装する際、その軸先には断面が八角形状のものを用いました(軸先→[図-2]参照)。
この様式は今日でこそ見かけませんが、つい大正時代には現役であった仕様です。

和様の吉数-「六」
 道教では、六角形が世界観を示すものとしています。そして、日本でも六角形は八角形に次ぐ格のものとされます。

 これは古の天皇や皇太子の古墳が八角形であり、六角形のものはそれに準ずる格の高い貴人を埋葬する墳墓に用いられたことからもわかります。

 正六角形を表す文様には亀甲文があります。亀甲文とは正六角形、あるいはこれが蜂の巣状に連続する文様をいいます。
また、前者を亀甲形、後者を亀甲繋ぎと呼称し分けることもあります。この文様名は日本で名付けられたもので、亀の甲羅に似ていることからといわれます。

 中国で古くは亀の齢が一千二百歳(日本では万年)とされ、亀は千歳を経れば霊(不思議な力)を具えて吉凶を知るといわれます。
そして、百歳で一尾を生じ千歳にて十尾を持つとされていることから、古典的な絵画や文様に表される亀は多くの尾を持った霊亀で表現されることが普通です。
 また、霊亀は蓑亀(ミノガメ)と呼ばれることもあります。蓑亀は長く生きるうちに尾部へ海藻が付き、これが蓑形状になった姿から名付けられたといいます。

 いずれにしても亀が延命長寿を表象するものであり、図案化された亀も古くから同様の意を表すと考えられました。これが発展し日本で亀甲文は長寿を寓意する吉祥文とされますが、文様を伝えた本家の中国では、正六角形を亀と結びつけてはいません。

 この日本でのみ長寿の願いを負う亀甲文は、たとえば産所屏風(ウブヤビョウブ)の裏貼に用いられました。
産所屏風とは白絵屏風の一種であり、お産のときに用いられた屏風です。
この白絵とは白い綾織の絹を貼ったものに雲母で絵を描いたものをいい、産所屏風の表へは、やはりいずれも長寿を表象する松竹鶴亀が主題として配されます。

 なお、これへ白地が用いられたのは白不浄(産穢)に対する結界であることに疑う余地がありません。

 また、裏貼に亀甲文が用いられたのは、長寿の願いのみならず格式の高さを表すためでもあったのでしょう。

この亀甲文の単位形象、亀甲形も折敷紋と同様に神紋として、あるいは敬神家の家紋として多用されるものです。熨斗鮑を六角形に折った紅白の紙で包むのも、こうした理由でしょう。

 ちなみに、熨斗鮑はそもそも格式の高い生臭です。
というのも、天照大神を伊勢神宮へ導いた斎宮、倭姫命が伊勢の国崎を訪れたとき、海女の差し出したアワビのあまりのおいしさに感動し、神宮への献上を願ったという伝説があるからです。
 これを由縁として、第2章の冒頭で記したように、鳥羽市の国崎には神宮司庁所管の御料鰒調整所(ゴリョウアワビチョウセイジョ)が設けられています。
2011年06月23日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その9)

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陶器と磁器
 一般に焼物は陶磁器ともいいますが、陶磁器は磁器と陶器を併称するものです。

磁器は石物(イシモノ)とも呼ばれるように陶器と比べ硬質なもので、たとえば指で弾けばキンキンといった金属音がします。

これに対し、清水焼や丹波焼など陶器は磁器に比べ軟らかいことから、土物(ツチモノ)とも呼ばれます。そして、陰陽論では硬=陽、軟=陰と規定しています。

 掛軸の下部にある軸木両端に付いている巻くときの手かけを軸端や軸先といいます([図-2]参照)。
これにはさまざまな素材のものを用いますが、僧侶の書作品、つまり唐様作品へは、この軸端に陶器を用いないという表具師の口伝があります。

 さて、中国や朝鮮半島では、歴史的にみれば美術工芸品としての焼物が陶器から磁器へと変遷したように、本来磁器のほうが生活雑器とされる陶器より格の高いものと考えられています。

 生活雑器は雑器であるゆえに意匠を凝らしたものが少なく、これに反して、たとえば白地に藍青色の絵文様を施す青花(染付)などは主に磁器に用いられる技法です。
 また、磁器のなかでもあえて絵付けを行わない白磁や青磁は、中国で古くから珍重された玉(ギョク)に近づけるため開発された焼物の技法です。

 ちなみに、この玉とは、中国で先史時代から珍重されてきた「石の美なるもの」の総称です。玉は狭義には軟玉(ネフライト)をさし、広義には硬玉(ジェーダイト)、すなわち翡翠や瑪瑙、水晶などの貴石や宝石などを含みます。
ここでは軟玉である白玉や青玉、碧玉をさします。

 ところで、日本では伝統的に陶器と磁器の格付け順位に、それほどのこだわりは持ちません。それは一部の陶器が茶道でもてはやされてきた歴史を見ればわかります。
 その結果、日本の陶器は特殊な発展を遂げ、東洋はおろか、磁器と陶器をさほど区別しない西欧でつくられるものに対しても、芸術性、表現性に長けています。

 しかも陶器は吸水性があるからか、日本人にとって温かみ、すなわち抒情性や情趣性を感じさせてくれる焼物です。

 また、陶器はどちらかというと、いびつな形で作陶されることが多いようです。これに対し、磁器は対称性を備えた端正な形でつくられることが普通です。
なお、陶器の特にいびつな形を好むことは茶人の独創ではなく、茶道の興隆以前にも多く見られた傾向です。

 ところで、こうした不規則性、不完全性を好むのは何も陶器に限ったことではありません。先に記したアシンメトリーを好む性向も、不完全性を良しとする心性によるのでしょう。

 ただ、それには研ぎ澄まされた審美眼が必要とされますが、こうした非対称の美を鑑賞・創造する力は生来、日本人の文化的遺伝子に備わっている資質といわれます。

 さて、今日では備前焼や信楽焼など日本各地の陶器を国焼(国物)と総称することから、また磁器を特に英語でチャイナ(china)と呼ぶことからも知れるように、陶器を和様、磁器を唐様と位置付けることができます。

 ただ、英語でジャパン(japan)は漆器を意味します。日本には石器時代の太古から漆塗を使用してきた歴史があります。
この漆は通常の乾燥とは異なり、湿度が高くなればなるほど硬化が進みます。

 そして、湿気の多い日本では漆を利用する技術が古代より高度に発達したことから、漆器は日本を象徴する工芸品となっています。
なかでも日本オリジナルな漆芸技術である蒔絵を使って製品化されたものは、広く海外でも評価が高いものです。
 ですから、器物での対比を行うなら磁器=唐様、漆器=和様となるでしょう。

 ちなみに、漆には特別な力があると信じられてきました。触るとひどくかぶれる漆には、邪悪なもの寄せ付けない力があると考えられたからです。
あるいは、漆の利用価値が高いことと裏腹の、かぶれて炎症を起こすといった二面性が、漆に神性を見出してきた理由かもしれません。
これは触れることによって生じるタタリの構造が如実に現れる例です。

 ところで、表具では唐様絵画を屏風に仕立てるとき、その枠には黒塗を用います。そして、四隅を補強する角金具には金銅(コンドウ)製か真鍮製の金色を呈する金物を用います。
 逆に、和様絵画へは朱塗の枠を用いることが多く、このとき角金具には銀製の金物を取り合わせることが普通です。

このような唐様=黒・金、和様=朱・銀という組合せを表具師は公式のように用います。

 なお、漆塗で用いる木材の器胎(塗下地に用いる木地)には、広葉樹材に比べ一般に癖が少なく湿気に強いとされる檜や檜葉などの針葉樹材が用いられます。
2011年06月22日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その8)

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シンメトリーとアシンメトリー
 唐様と和様の違いは、嗜好する造形の対称性にも現れます。

 中国風の幾何学的構図というのは左右対称で向き合うものです。
たとえば筑波大学名誉教授、三井秀樹氏は『美のジャポニズム』で「江戸時代の着物のデザイン、小袖や打掛けに左右対称の模様や図柄の構図を捜してみたが一部の羽織・半纏を除き、皆無に近かった。中国や朝鮮を含め西洋の衣装はこれとは逆に、ほとんどがシンメトリーの構図をとっている」と記しています。

 このように唐様ではシンメトリー、すなわち左右が均等な線対称の造形が好まれます。 
逆に、和様のデザインはアシンメトリーを好むのが特徴です。アシンメトリーとは左右が不均衡のことをいいます。

 このような嗜好は建築にも現れます。寺院など唐様建造物はシンメトリーに計画されるのに対し、桂離宮といった和様の建造物はアシンメトリーな造形の中に美が見出されてきました。

 また、先述した仮名書の「散らし書き」においても然りです。「散らし書き」では行間の幅を一定させず、隣接する行を多く次第に低い位置から書き出します。
そして、ある時点で余白を設け、また行の頭を高くします。
しかも、その行自体を画面に対し垂直に表現するものもあれば、時に斜めで書くものもあります。

これに対し、中国の漢字書は行の天地をなるべく揃え、すべて垂直に書くのがルールです。

 仮名書は連綿と続くように、しかも文字の大きさを変えてバランスを考慮しながら作品化されます。
中国の書作品には、こうした表現は一切見られませんが、日本の漢字書作品には文字が次の文字を引き起こすように続く、また文字の大きさが幾分変化するようなものもあります。

 こうした作品を和様書と呼んでおり、逆に中国書に見られるような謹厳なスタイルを唐様書と呼んでいます。

つまり、書作品においても唐様書と、仮名書を含めた和様書は対称、非対称の相違によって区別されています。
ちなみに、漢字唐様書を[真の真]、漢字和様書は[真の行]と規定することができます。

 好みの相違は三井氏が例に挙げているように、特に模様や文様の選定に強く現れます。

 日本独自の代表的な装飾文様は「秋草」といわれます。秋草図や秋草文は、文化の和風化が進んだ平安中期以降に多く見られるようになります。

 美術史家の源豊宗は『日本美術の流れ』で、美術を象徴するものとして西洋のヴィーナス、中国の龍に対し、日本には秋草をあてることができる、といいます。

 そして、日本芸術の本質は装飾的精神にあり、その装飾性とは単なる視覚的フォルムの問題ではなく、その背後に抒情的なものをもっている点だともいっています。
つまり、和様の美術はその抒情性に特徴があります。

 これに対し、シンメトリーな造形は一般に権威性や格式高さ、また謹厳なイメージを鑑賞者に与えます。

 なお、秋は五行説では陰。秋草で代表されるように、和様が秋を好んだ背景にはモノノアワレといった感傷もさることながら、自らの立場を陰としたところにあるのかもしれません。

 太白星は金星の異称です。ここから中国では秋の神を太白と称し、太白神は兵事や凶事を司るとされました。
ですから、中国では白が時代を通じて凶事の色とされてきたように、秋もまた唐様でさほど好まれる対象ではありません。

 さて、秋草の具体的なモチーフは主に「秋の七草」であり、これらを図案化、文様化したものは、すべてアシンメトリーに表現されます。

 また、こうした秋草と同じ系列に「吹寄せ」があります。吹寄せとは、落葉や落花などが地面に吹き集められた様子を図案化したものです。

 たとえば紅葉を始めとして銀杏の葉や松葉、松毬などを吹き寄せて秋風が運ぶ晩秋の風情を表したものや、桜や菊などを混じえて季節にこだわらず自由に表現されたものもあります。そして、こちらもアシンメトリーに表現されることが普通です。

 こうしたアシンメトリーな図案を、たとえば着物で表現するには手描きによる染めが向いています。これに対し、シンメトリーな図案を具体化するには織が適しています。
 和装における帯と着物の関係は、帯が着物に対して格上です。そして、帯には織、着物には染めを選ぶことが正装とされています。

これも見方によっては唐様-和様の対比で捉えることが可能でしょう。あるいは、陰陽和合の一つの事例とも考えることができます。

 なお、先述の唐紙の図案においても、シンメトリーな図柄によるものは〔行の真(唐様)〕、アシンメトリーなものは〔行の行(和様)〕で用いるというのが表具師の口伝です。
2011年06月21日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その7)

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龍と鳳凰
 日月に龍、あるいは日月に鳳凰が天皇を象徴するものとされてきました。絵画で、この日月が並べて描かれるとき、それぞれ一般に金と銀で表現されます。

 日月で表されるのは陰陽和合を意図したものでしょうが、これは見方を変えれば、天皇が唐様と和様を統べる者と考えることができます。

 かつて公家が銀を愛でたのは、自分たちは陰、すなわち月のような存在であると考えてきたからでしょう。
つまり、つねに追従する対象を求め続けるというのが、和様の本質の一つといえるかもしれません。

 ただ、こうした立場に甘んずるというのは、人によって鬱屈の溜まるものではあったでしょう。

 ですから、江戸期には決して政治の表舞台に立てなかった公家にとって、追従の対象が中国唐様ではなく、あきらかに武家唐様にシフトしますが、それを統べる天皇の存在が精神的な支柱として脳裏にあったことは疑いえません。
これはまた、武家からしても同じでしょう。

 さて、中国ではかつて龍や鳳凰の現れが最高の瑞祥であると考えられていました。こうした伝説が天皇の象徴に龍や鳳凰が用いられた由縁です。
 龍は四霊(麟・鳳・亀・龍)の長とされることから、龍文が三国(中国・朝鮮・日本)ともに天子(君主)の文となります。

 こうした謂れからでしょう、かつての中国では天子が龍の子供とされ、龍文は宮廷関係以外への使用を禁じられていました。さらにいえば五爪の龍文の使用は天子に限られ、四爪龍および三爪龍は天子の一族用であったといいます。

 一方、鳳凰は「英君出ずるとき竹の実をくわえて桐の木に棲む」という中国の故事によって、天皇を象徴するものとなりました。

 なお、この伝説を文様化したものが、鳳凰に梧桐(アオギリ)と竹を配した桐竹鳳凰文です。桐竹鳳凰文は麴塵文(キクジンモン)ともいいます。
この麴塵とはそもそも天皇が軽い儀式のときに着装される袍(ホウ)の染め色をいいます。

 ところで、中国の天子が龍文を専売特許にしたからか、天皇の象徴には龍よりも鳳凰を用いることが多いようです。

 また、龍と鳳凰を並置させるときには陰陽五行のルールにしたがい、龍は向かって右、鳳凰は向かって左へ配します。

 こうしたことから、龍が唐様、鳳凰は和様と考えることができます。
また、龍文を日本では高僧の書作品に用いるというのが表具師の口伝であることからも、これが窺えるというものです。

 龍は権力、鳳凰が高貴や富貴を表すといわれ、「龍鳳呈祥」と称するように龍文と鳳凰文が一組で扱われることもあります。
このとき日本では俗に龍が男、鳳凰が女を示すとされ、これによって日本の龍鳳文は男女の愛情をも意味するようになりました。

 日本でこの龍鳳をセットにした図柄は、結婚式の、たとえば引出物の包装紙のデザインなどでよく見かけます。
2011年06月20日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その6)

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金と銀
 唐様と和様では金と銀の嗜好にも差が現れます。

 金が尊貴な情感をもたらすものと考えたのは古代ペルシャ文化とされますが、その東方への影響はインドで留まり、当時は東洋にまで至らなかったといわれます。

 このような尚金思想が日本に招来されるのは、仏教の伝来と同時的なものであり、この理由で金が仏教の荘厳と結びつきます。
ですから、たとえば表具では仏教主題の作品へ金襴(キンラン)を多用します。

 ちなみに、金襴は中国で宋代に織り始められたといわれます。そして、わが国へは鎌倉時代にもたらされ、武家社会が確立する室町・桃山時代には数多く舶載されました。
日本では、この頃に需要が高まったのでしょう、室町末から桃山時代に織法の完成をみたそうです。

 さて、金と同様の価値性を示すものに銀があります。

 金襴の日本への渡来が以上のように比較的遅いことから、たとえば表具ではそれまでの格式高い作品に、錦(ニシキ)織物を用いてきたという歴史があります。

 しかし、金襴や銀襴など箔糸入り織物が国産された以降は、宸翰(シンカン)など格の高い〔行〕作品へ銀襴を用いるようにもなりました。

 白銀(シロガネ)とも呼ばれる銀は、雲母と同じように白系で光輝性を示す金属です。これをもってか、銀が伝統的に和様の仕様で用いられます。
もちろん、和様での銀の使用は唐様=金との対比、あるいは対抗による理由もあったことでしょう。

 襖の引手にも銀製のものが多く用いられてきました。この銀引手もやはり主に〔行〕での仕様です。
これに対し、唐様、たとえば寺院や居城などの本格的な〔真〕の書院では、金銅(コンドウ=金鍍金、銅地金)製か真鍮製の、しかも隅ずみまでこうごうしいほどに加飾された金色引手(御殿引手)が好まれました。

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[御殿引手]

 なお、当時の真鍮は、この合金技術が低かった江戸初期において極めて貴重な金属とされたものです。

 ところで、銀(銀イオン)はバクテリアなどに対し強い殺菌力を持つことが経験的に知られています。今日でも、抗菌剤としてプラスチック製品用に最も多く使われているのが銀ゼオライトなど銀系抗菌剤と呼ばれるものです。
これも銀イオンが菌の繁殖活動を抑制する働きを利用したものです。

 手が直接に、しかも頻繁に触れる機会が多い襖の引手に銀が多用されたのは、こうした理由も大きかったのではと考えます。
つまり、殺菌という概念は近代までありませんが、銀にケガレをハラう機能があることを経験的に知っていたからでしょう。

 襖の引手には銅も多用されます。銅イオンもやはり極微量で細胞の活動を奪うという極微量作用、つまり殺菌機能を持っています。
さらにいえば、真鍮もまた、銅と亜鉛との合金であることから、極微量作用を備えています

 さて、戦国武将の織田信長は金本位制度を試みたにもかかわらず、江戸時代には「関東の金遣い、上方の銀遣い」とか「江戸は金目、上方は銀目」といわれたように、当時の貨幣制度は関東で金本位制、関西が銀本位制となりました。
すなわち、価値尺度を将軍家のお膝元である江戸で「金」、天皇が住まわれる上方で「銀」に置いたものです。

 二本立てとなった背景には、東日本で金山、西日本では銀山が多かったため金と銀の使用圏がそれぞれ東日本と西日本に集中するといった理由が主であったのでしょうが、これも唐様と和様が対立していた構図の一つであったのかもしれません。

 襖の引手に〔行〕で銀を用いたのは、銀に資産的な価値を見出していたことに疑念の余地はありません。

 ただ、唐様でも同じように銀引手を用いなかったのは、やはり武家や寺家の唐様文化が金の方へより一層の価値を見出していたからでしょう。
日本で城や寺院の書院に金引手が現れるのは室町後期頃といわれます。
2011年06月19日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その5)

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日光と月影
 陰陽論にしたがって、日の光を日光、月の光を月影と呼ぶと第1章で記しましたが、神道における神の像はなぜ神影(シンエイ)というのでしょうか。

 薬師如来の脇侍は日光・月光菩薩であり、日光・月影菩薩とは称されません。また、仏の姿を御影(ゴエイ)と呼ぶことはあっても仏影と言うことはありません。
つまりは、仏教=陽=光、神道=陰=影という構図です。

 畏れおおい、あるいは偶像崇拝を認めないといったことから神像に「影」という字を用いるということもあるのでしょうが、これも一つの、神が仏の下位にある、すなわち和様は唐様の下にあるということを示す言葉でしょう。

月への憧れ
 こうしたこともあってか、和様ではことさら月に対する憧れを持ってきました。

 京都にある桂離宮は八条宮家(桂宮家)の別業(別荘)として八条宮家初代の智仁(トシヒト)親王が創建したもので、禁中並公家諸法度が定められた1615年頃から造営に着手されたと考えられています。

 この智仁親王は月の名所とされた桂に月見台を設けたことからもわかるように、観月を極めて好んだそうです。月は移ろうものであり、こうした現象的な側面を情緒的な感覚で捉えるところもモノノアワレとされる和様の伝統です。

 ところで、一種の木版画ともいえる文様摺りで装飾加工した襖紙を唐紙(カラカミ)といいます。唐紙は当初、中国からの文様摺りに限らないあらゆる輸入紙をさしましたが、後に優美な模様入りの紙だけが「からかみ」と称され、やがて平安時代には国内で模造されるようになります。

 桂離宮古書院の襖や壁紙には、雲母(ウンモ)を使った唐紙が用いられました。そして、この雲母による唐紙は主に〔行〕で用いる仕様です。

 雲母はキラともキララとも呼ぶように、きらきらと白く光って見える鉱物です。唐紙へはこの雲母を細かく砕き顔料として用います。

 こうした、光を受けると輝いて見える雲母の唐紙が、照明の乏しかった頃には光の反射をその機能として備えていた、という見方があります。
すなわち、月への渇仰から月のあかりを効果的に室内へ取り込むことが、桂離宮古書院で雲母の唐紙を使用した理由であるとも考えられます。

 ところで、最近の熊本大学埋蔵文化財調査室の研究によると、縄文時代後期から晩期における九州の遺跡で出土した、緑色の勾玉(マガタマ)や管玉(クダタマ)などの石製装身具のうち約7割は、クロムを含んで緑色に見える白雲母岩でつくられていたそうです。
つまり、それまで翡翠、すなわち宝石の類である玉(ギョク)と思われてきたものが、雲母であったということです。

 このように白雲母が日本で古代から好まれたことも、〔行〕で雲母の唐紙が多用された理由の一つでしょう。

 ちなみに、日本では雲母を巻物裏面のきらびやかな装飾にも用いてきましたが、これは中国の巻物には見られない仕様です。

武家文化はなぜ唐様なのか
 八条宮智仁親王は正親町(オオギマチ)天皇の孫として生まれました。幼少の頃から歌道および古典文学を学び、さらに書・香・茶など諸芸に通じた、この時代の宮廷を代表する文化人です。
また、一時は豊臣秀吉の養子となったことで皇位継承権を事実上失った人でもあります。

 寛永年間には、王朝文化、すなわち和様の復興を目指す和文化の高揚期がありました。これは、寛永宮廷サロンと現在では呼ばれている、当時の京都の宮廷貴族が主導した多彩な文化人の交流により華開いたものです。
その宮廷貴族の中心人物が智仁親王です。

 このような前提において桂離宮を見直すと、その智仁親王の手による建築は、当然のように当時の和様が色濃く現れたものであったでしょうし、それゆえ桂の古書院は当時における和様書院の代表的なものと捉えることができるでしょう。

 ですから、桂離宮の造営は和様を揺り戻そうとする、公家社会の武家文化に対する一つの静かな示威行為であったと考えるのです。

 というのも、当時は朝幕関係がつねに緊張状態にあったからです。つまり、徳川氏による江戸幕藩体制が確立しようとする頃であり、武家を公家の上位に置かんとする意識が極めて高まっていたからです。

そこで、武家にとって頭の上がらない公家文化への対抗手段の一つとして、武家文化へ積極的に唐様文化を採り入れようと試みた事実がありました。
江戸幕府による儒教奨励策には、こうした目論見も一つにはあったことでしょう。

 また、時代劇や時代小説では、武士の口調が独特な表現でなされます。これは武家言葉と呼ぶそうですが、江戸初期、中央集権体制を築いたための全国各地の訛りを解消する必要から、つまり共通語として生まれたそうです。

 ただ、このような特殊な武士語が、やたら漢語調でなされたのも、唐様を意識してのものでしょう。

 以上が、日本文化の中で武家文化が唐様を示す根拠となります。

 なお、鎌倉時代にも同じような事例があります。当時、武家の臨済宗への帰依が多かったのは、禅宗の説く自力本願が武家の気風にマッチしたからとされます。

これに加えて、平安時代の加持祈祷が主であった仏教を信奉する公家中心の文化から脱却するためにも、積極的に禅宗様を取り込んだという事実があったからです。
2011年06月18日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その4)

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唐様が格上
 日本では、かつて水墨画が絵画の中で「真の画」と呼ばれ、最も格が高いものとされてきました。そして、これは〔行〕とした「やまと絵」に対しての言葉です。

また、特に絵絹(絵画を描くための平織の絹)に描かれた水墨画が〔真〕とされたことから、紙に描かれた絵画は格が低いものとされました。
これは青ニギテ、白ニギテの関係に相似します。

 水墨画が日本に伝来するのは13世紀の中頃とされますが、当初これを好んで取り入れたのが寺家です。こうしたことから水墨画は唐様と見なすことができます。

 さて、このように唐様を真とする、すなわち格式が上とするのは上代からのことです。たとえば平安時代には漢字(真名)から生み出された仮名は、女性が使うものとして公式な場での使用が憚られたものでした。

ちなみに、男手(オトコデ)とは漢字を、女手(オンナデ)とは仮名をさす、今日でも用いる書道用語です。

 ところで、アマテラス神話から知れるように、かつて日本には女神信仰がありました。

カミは先述のように女性神を表します。カミは上(カミ)に通じることから、すなわち女性を上(ウエ)として尊ぶ歴史がありました。

 しかし、本来が聖俗や上下に関わらない陰陽論を輸入したにもかかわらず、日本では神道でいう赤不浄(血穢)や白不浄(産穢)を伴う女性をケガレた存在とみなしたことからか、いつしか女性が男性より下位のものとされてきました。

 仏教でもそうです。平安時代の末期に法華経信仰が盛んになるのは、法華経が唯一「女人成仏」を説くからですが、それも「変成男子(ヘンジョウナンシ)」の説によって、つまり女性は一度男性に生まれ変わってから成仏するという過程を踏むことによって可能としているからです。

 こうした男尊女卑思想の延長により、仮名(和様)は漢字(唐様)より格下であるという意識が続きます。
同じように和歌(和様)も漢詩(唐様)より格下とみなしてきました。

つまり、尚陽の思想と照らし合わせていうと、唐様を陽、和様を陰としてきたのでしょう。

 仏教と神道の関係も、こうした一連の比較の中で捉えることが可能です。
平安時代から本地垂迹説(ホンチスイジャクセツ)が現れます。これは、大まかにいえば神の正体は仏である、いいかえれば「仏は神の上なんだよ」とする説のことです。

 これは仏教と神道に使われる{教」と「道」という言葉の関係も同様です。すなわち、中国で「教」は「道」の上位概念を意味するからです。

 ところで、「絵画」の「絵」は大和絵を、一方「画」は水墨画をさすといわれます。
これは江戸時代に大和絵作家を絵師(エシ)、唐画作家を画師(エシ)と書き分けていたことからもわかります。
 「絵」を「ヱ」と読むのはそもそも呉音での発音ですが、ヱは従来、和語としても用います。
この「絵」は本来が彩色という義であり、蒔絵(マキエ)や錦絵(ニシキエ)など多く日本独自の装飾絵画に対して用いる語です。
そして、大和絵は主題に花鳥を好み、多分に装飾的で優しく穏やかな表現が特徴です。

 一方、「画」はもともと彩色に限らず描く義ですが、日本では主に精神性を重んじ峻烈な表現を旨とする唐様画に対して使う語として通用しています。

 また、「日本画」は西洋画の対語として用いられる、これまで日本で発達した独自の様式を有する絵画の総称的な用語です。

 しかし、狭義的に近来の麻紙(マシ)などへ厚塗りされた日本画をさすことがあります。
この狭義の日本画と呼ぶものも、「画」の字が示すように、西洋的な表現に影響を受けて生まれた明治以降の歴史的には浅い絵画表現です。
そして、その一番の特徴は西洋画に見られるように背景までしっかりと着彩、あるいは描画されるところです。

 ちなみに、「絵画」と同じような例に「詩歌」があります。詩歌は「詩」=漢詩(本文、ホンモン)、「歌」=和歌と対応します。
2011年06月17日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その3)

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漢画と大和(やまと)絵
 室町時代の後期に、やまと絵の装飾的な技法を取り入れ、大画面構成による障屏画(ショウビョウガ)様式を大成したのが狩野派です。狩野派は日本絵画における漢画系の一画派です。

この「漢画」とは日本で生まれた言葉です。

鎌倉後期から輸入された宋元絵画の影響で、平安中期に成立した日本の風景や事物を描いたものを「やまと絵」と呼ぶようになり、この画系は室町時代に至って土佐派を形成するようになります。

 これに対し、やがて宋元画に倣って日本で生まれた唐様風絵画を漢画と呼ぶようになりました。

 ちなみに、やまと絵は大和絵、倭絵とも書きますが、大和絵と表記するのは江戸後期以降です。

 さて、狩野派の始祖、狩野正信は水墨画(漢画)を主としました。その子の元信はやまと絵の画法を取り入れ、明解で力強い装飾性をもって武家の好みに応じたといいます。
そして、織田信長、豊臣秀吉に仕えた孫の永徳は、後に徳川家の御用画師(ゴヨウエシ)となりました。

 しかし、やまと絵の技法を取り入れたとしても元は漢画にあり、狩野派によるものは日本で大成された唐様と捉えることができます。

これは、たとえば当時の障壁画に見る、隅の隅までの過剰ともいえる装飾を好む、また描画されていない空白部があるのを粗野と考える芸術観が、全くもって中国的なもの(唐様)であることからもわかります。

 一方、江戸前期に絵所預(エドコロアズカリ)として活躍した土佐光起は『本朝画法大伝』で「白紙も模様のうちなれば、心にてふさぐべし」、すなわち「空白部分も絵の一部なのだ。そこに何が描かれているか、想像しないといけないよ」といっています。

つまり、大和絵に見られる余白は暗示を意図するものです。
こうした暗示性や見立てを活用することは和様絵画だけでなく和歌や俳句といった日本独自の文学、はたまた表具の取合せでも常套の手法です。

 土佐光起は、やまと絵の伝統を受け継いだ土佐派を再興した人物です。また、絵所(エドコロ)とは平安以降、絵画に関することをつかさどり、宮廷の装飾や衣服の模様などを担当した役所であり、絵所預とはその絵所に所属する絵師(エシ)の長をいいます。

 したがって、画面を一杯に埋めるのが唐様絵画の特徴で、日本の伝統的な和様絵画は余白を残す点で大きな違いが見られます。

 唐様絵画のこうした性向は西洋絵画全般にも通じるものがあります。かのレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ-リザ」も、今では霞んで見づらくなっていますが、そもそも背景はしっかりと描かれていたそうです。

 二次元的な芸術表現の、こうした違いは絵画作品だけでなく、書作品においても然りです。

仮名書は多く「散らし書き」というスタイルで作品化されます。「散らし書き」は歌を、行を整えず散らして書くことをいいますが、このとき作品画面に大きな余白を与えます。   
一方、中国の漢字書では、なるべく余白を設けないのが普通です。

 また、三次元的な表現においても、たとえば武家唐様の一大発露である日光東照宮など建築になされた彫刻による装飾においても見られるように、充満-余白は唐様と和様の一般的な相違点です。

ですから、自分の文章などを掲載することを意味する謙譲表現、「余白を汚す」も極めて日本的な慣用句といえるでしょう。

 ところで、今日の日本が世界に誇るサブカルチャー、マンガも和様を引き継ぐものと考えます。
日本のマンガは背景がぎりぎりまで省かれます。このことがマンガに一般性、暗示性を与え、ちなみに今では日本のマンガが全世界へ輸出されています。

 これに対し、たとえば米国のコミックは背景へくどいまでに手が掛けられています。これは日本で劇画と呼ばれるジャンルの作品群も然りです。
したがって、日本の劇画は唐様絵画の流れを引き継ぐものといえるでしょう。

 この劇画は海外へ輸出されたためしがほとんどありませんが、劇画のジャンルに収まらない一部の、手の込んだ背景を有するマンガは海外に熱狂的なファンを持っています。

 さて、西欧および北米の文化と中国文化は、西洋と東洋といった括りに縛られず、芸術表現の点において相似通った面があります。

これに対し、今日ほとんどの文明史学者が日本を世界六大文明、あるいは七大文明の一つと区分しているように、日本はこれまで極めて特殊な文明を築いてきました。
つまり、一文明一国家である日本の、その文化は多くの点で他の文明諸国と相違があります。

 また、日本語の発音が一語単位でなされるのに対し、日本語を含めたポリネシア諸語以外の言語がシラブル単位で発音されることからも、他の文明に比した日本文明の特殊性が知れます。
そして、これが短歌や俳句といった独自の文芸を生む基となります。
2011年06月16日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その2)

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Ⅲ-① 唐様と和様の違い

 以下では〔草〕について語るのは主旨から外れますので、〔真〕すなわち武家文化を含めた漢文化を唐様、〔行〕を和様と呼ぶことにし、それらの違いについて触れてみましょう。

漢語と和語
 唐様-和様という二重構造は日本語の中にも見られます。

たとえば漢字の読み方に音読みと訓読みがあるのがそうです。中国渡りの漢字とその文化を採り入れるのに、日本では訓読みという画期的な方法を発明しました。
この訓読みと送り仮名によって日本人は自国固有の言葉を温存しつつも、漢字を自家薬籠中のものにします。

 なお、こうした性向は現代においても引き継がれ、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、算用数字の5種類を混在させる現代日本語が、世界で最も文字の種類・数が多い言語となっています。

 漢字の音読みにも一般に呉音読みと漢音読みと呼ばれるものがあります。漢字の音は、まず仏教経典を通して六朝式(リクチョウシキ)が伝わり、その後遣唐使によって長安式が伝わりました。
日本では六朝式を呉音、長安式を漢音として区別しています。

 音読みは平安時代、朝廷によって長安式への統一の試みがなされたのですが、僧侶からの反発が厳しいこともあり、むなしく両者が棲み分けた格好となります。

 そこで仏典に関しては呉音読みが保存されたことから、現在でも仏教関係の語は、たとえば「荘厳」を「しょうごん」と読むなど呉音で発音するのが普通です。
また、僧号(僧侶の名)や仏教用語が一般化した語も同じです。

 なお、皆さんもご存知のように、漢字を音読みで発音すると何か固いイメージが生じます。
逆に、たとえば「階段」を「きざはし」というように訓読みで発音すれば何やら優しいイメージを抱きます。

 ところで、中国渡りの字音で読まれる語を漢語(カンゴ)、古代から使ってきたであろう日本土着の言語を和語(やまとことば)といいます。

 明治になるまで公用文には漢文あるいは和式漢文が使われていました。つまり、漢語は政治を執り仕切る男性が使う言葉でした。

たとえば平安時代に大和朝廷へ出仕した役人は男性に限られており、平安初期の唐文化の取込みが至上命令であったその頃、そこでの朝議(朝廷での評議)はおそらく漢語に満ち満ちたものであったでしょう。

 逆に、当時の家庭を守っていた女性は、「女に学問は不要」とされてきたことから漢語はさほど学ばず、子どもを育てるのに和語だけを使っていたものと想像します。
時代はずれますが、母系制が色濃い平安朝中期に成立した『源氏物語』は100万字に及ぶ大作にもかかわらず、ほとんどすべて和語で書かれています。

 こうした、外では漢語、内では和語を用いるといった傾向は男女平等が謳われる今日を除き、日本ではずっと続いてきた伝統でした。

つまり、日本でのマザータングは、そのまま母親が話す言葉を意味したといえます。
これは日本人なら労せずに音読み・訓読みの識別ができることからもわかります。

 したがって、和語や訓読みには何やら母性的で、しかも情趣性の溢れる印象がつきまといます。
こうしたことは、たとえば昭和の古い歌謡曲で名曲とされるものはすべて和語で詩作されており、これが情緒豊かで心の奥底へ深く訴えかけるものであることからも知れます。

 ただ、これは見方を変えると、唐様=合理、和様=情緒と捉えることができます。そして、唐様・和様の関係を父・母とも、公・私ともたとえることができるでしょう。

また、「真」には式正の意があり、〔真〕=唐様であるので、唐様=正式、和様=略式と考えることもできます。

 先述の書作品などに用いる落款も白文が陰、朱文が陽としましたが、今日の日本でこれらに本名と号(雅号)を表す場合は、白文に本名(=プライベート)、朱文に号(=パブリック)とするのも、これに合致する仕方です。
2011年06月15日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅲ.和漢の章(その1)

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Ⅲ.和漢の章

 室町時代に成立した『菅家遺誡』という書物に「和魂漢才」という言葉があります。これは中国の学問を学んで、それを日本固有の精神に即して消化することをいいます。

こうした考え方は「漢」を「洋」に置き換えれば今日でも有効です。

 ただ、前章までで見てきたように、日本の文化は「漢」、すなわち中国文化に由来する漢文化と、「和」、すなわち日本固有の精神から生まれた在来文化に由来する和文化の混在状態であるのは確かです。

 そして、そもそも和文化は漢文化と相対することによって発露し、アイデンティティーが見出されてきたものです。

 そこで本章では、日本に残る漢文化と和文化の対比を通して、和の心を探ってみることにします。

三体九姿
 日本文化の特徴は、その重層性にあるといいます。こうした重層性や日本文化の構造を語るとき、伝統的に用いられてきた便利な手法があります。

これが「真行草」と呼ばれる、あらゆる日本文化のスタイルを三体に分類して考える仕方です。

 この三体は、「真は行を生じ、行は草を生じ、草は走るが如し」という中国の書体、すなわち楷書(真書)、行書、草書から生まれたものといわれます。
 また、華道では端正厳格なものが〔真〕、少し崩して柔らかみをもったものが〔行〕、そして大いに崩して柔らかみをもったものを〔草〕とする、と定義されます。

 しかし、これではあまりに曖昧です。

 この点、表具の仕様は、これらのスタイルへ個別に対応しています。たとえば軸装において、「南無阿弥陀仏」など名号(ミョウゴウ)と呼ばれる書作品は〔真〕のスタイルで行い、仮名書の作品は〔行〕のスタイルで行います。

また、同じ〔真〕の仕立でも名号と仏画の仕様を違えるように、表具では数百年前から「真行草」を厳密に区分しています。

 というのも、表具はすべて糊で組み立ててゆくので、作品にとって表具地(作品周りの装飾)は半固定的な衣であり、作品の性格を汲み取ってコーディネイトしなければいけないものであるからです。
 いいかえれば、表具は作品の一部となることから、表具師にはあらゆる様式の作品群に対応すべく個別の口伝がなされているからです。

 そこで、表具師の口伝から探ったところの表具文化と照合し、「真行草」をおおまかに現代の基準で言い直してみることにします。

 三体の〔真〕とは外来文化に根差す好み、すなわち唐様(カラヨウ)と総称される、仏教文化と、近世における中国文化を意識した武家好みをさします。

 また、〔行〕とは日本文化のなかでも和様(ワヨウ)、すなわち朝廷文化と公家文化に代表される純日本的な好み、〔草〕とはそれら以外の雑なるものというのが本来的な区分の仕方です。

 ただ、〔草〕は江戸期以降、千利休によって大成された茶道の仕様を意味するようになります。
しかも茶道(抹茶道)文化は武家文化や禅文化に負うところが大きく、この点が少し「真行草」をわかりづらくしています。

 さて、表具や華道など伝統的な世界ではこれをスタイル化するため、さらに分化させます。その華道では三体(真行草)を九姿に分類します。

 つまり、九姿は三体をそれぞれ三つに分化し、たとえば〔真〕を真の真・真の行・真の草というように3×3の九つに分類するものです。
これを伝統的な世界では「三体九姿」と呼んでいます。

 三体九姿を、たとえば〔行〕についてもう少し詳しく分けて考えてみると、〔行〕には公家がハレの場で旨とした漢文化を下敷にする男性的な〔行の真〕、および宮廷の女御達の好みを今に引き継ぐ女性的な〔行の行〕があります。

 ちなみに、それら以外の雑なる〔行〕、なかでも江戸時代、幕府による奢侈禁止令などの規制をうけて発達した町人文化が次第に〔行の草〕を担うようになります。

 このように三体九姿は、漢文化とされる〔真〕にも和文化とされる〔行〕にも、さらに下位の概念において漢文化と和文化が併在するという構造をしています。

 日本文化を専攻する外国人研究者は、その美学を語るとき、「いくつもの特質が挙げられ、しかも相反する性格のものが交錯している」ことを嘆きます。

これは先に挙げた日本文化の重層性が起因しているからです。つまり、立場、好みの相違によって日本ではいくつもの美意識の潮流が存在しているからです。
2011年06月14日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その21)

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Ⅱ-⑧ 紫は尊貴な色

 前漢の武帝はことさら紫を好み、他の者の使用を禁ずる「禁色」としました。
そして、自らの住まいを「紫宸」や「紫極」と表して以来、中国では紫が最高位の色となってゆきます。

 「天子は南面する」ものであるので、中国の皇帝の服色はもともと北の配当色である黒であり、対極にある赤がその裏地に使われました。

 であるにもかかわらず、天子が紫を好んで身につけるようになった背景には、「水の黒を以って火に克つ、これを赤黒合してすなわち紫になる」とした五行相克という考え方によります。

 五行相克とは、木が土に克ち、土は水に克ち…といった五行の相関を説明するものの一つです[図-13]。
こうした説明体系からも今日では迷信とみなされるものが多く生まれています。

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[図-13:五行相克]

 いずれにせよ、これをもって道教では紫が宇宙統一、陰陽和合を示す色と考えられました。
また、玄が黒くして赤色を帯びる色とされたことから、この色を求めるために、一度赤で染めその上へ黒を染め重ねることもありました。

 ところで、天皇という語は一説に中国の故事、「北辰伝説」から取り入れた称号といわれます。
この「北辰」とは北極星を意味し、古代中国の道教思想において北極星(北辰)を神格化した宇宙の最高神が天皇大帝とされ、これを略して「天皇」と呼んだ、というものです。

 そして、中国では天皇大帝を「天帝」と略し、「天子」が天帝に代わって国を治める人を意味するのはこれが由縁とされます。

 さて、道教伝説によれば、北極星の天空から地上へ向かって放つ光芒が紫色とされ、これをもってか紫色が日本で天皇もしくは天皇家、あるいは天皇が執務される宮殿(紫宸殿)などを象徴する尊貴な色となります。

 なお、「宀」は交差して覆う屋根の形を象ったものであり、家屋を意味します。
ですから、この紫宸殿の「宸」は辰(北辰=天皇大帝)が住まう宮廷を意味します。

また、十二支で辰に龍を当てたのも、これが由縁でしょう。つまり、龍が四霊(中国古来の四方の守護神)の長とされてきたからの格式高さの表現です。

 そして、第1章で述べた「天子は南面す」というルールも「辰」が「北」に位置することから、自然と「辰(=天子)」は南に向かう、といった考え方に繋がったのでしょう。

 これが転じて「宸」は、たとえば天皇がお書きになったお手紙を「宸翰」というように、天皇や中国の天子に関することへ添える語となります。
表具では、この宸翰を軸装するときも紫地の織物を作品廻りに使用します。

 この紫はさびたやや赤みの紫色をさし、伝統色名でいえば本紫をいいます。本紫は紫根、すなわち紫草(ムラサキソウ)の根から採取する染料で染め出した色です。この紫草は今日でも栽培が難しいように、多く採集できないがゆえに高価であり、かつ濃い紫ほど染料を多く必要とします。このことによっても濃い紫色は伝統的に高貴な色の代表と考えられてきました。

 なお、平安時代から単にコイロ(濃色)、ウスイロ(薄色)と呼称される伝統色名は、それぞれ濃い紫、薄い紫をさしていることからも王朝貴族がいかに紫を好んだかが窺えます。
また、紫根は解熱、解毒剤として生薬にも利用され、紫草は古くから鹿狩りの植物版ともいえる雅な行事、「薬狩り」の対象ともされました。

 ところで、日本でかつて勅許により着用を許された僧衣(僧侶の衣服)の色は最高位が紫(紫衣)、次いで緋(緋衣)、そして以下が黒(黒衣)とされていました。
 紫衣は本紫系の色です。緋衣の色は洋色名でいえばスカーレットに対応し、正色の赤ではありません。そして、黒衣の黒も玄色ではなく、墨染色です。

冠位十二階の制と五色
 聖徳太子が制定した冠位十二階の制(603年)における色の配当も、五色の考え方を受け継いで発展させたものです。

 冠位十二階の制とは冠の色と位階を結びつけたものです。
この冠位制は位階を徳、仁、礼、信、義、智の6段階に分け、さらにそれぞれへ大小を設けて12段階とした制度です。そして、おのおのに相当する色を定めています。

 さて、冠の色には、徳=紫、仁=青、礼=赤、信=黄、義=白、智=黒が充てられました。そして、位階の大小には、このときの色の濃い薄いが対応します。
 たとえば「徳」に大徳と小徳があり、それぞれ濃紫(こきむらさき)、薄紫(あさきむらさき)の色が充てられました。

 この冠位十二階の制は、色制だけで見れば正色の最上位に紫を加えたものです。
儒教においては正色を尊ぶことから、孔子の「紫の朱(アケ)を奪うを悪(ニク)む」という言葉(『論語、陽貨篇)』)が示すように、正色でない紫色は儒家にとって反価値的な色です。

 そして、冠位十二階の制がヒエラルキーを定めたものであるので、聖徳太子は儒教の上に仏教や道教を位置づけた、あるいはこれらの宗教による儒教の抑制を主眼とした、とも考えることができます。
つまり、「日本は中国のような儒教国家ではありませんよ」といいたかったのかもしれません。

 ところで、冠位十二階の制では、紫はさておき、以下の色の順位を五行説に則って、青→赤→黄…と、正確に定めています。
これは1年が春(「木」)から始まるように、五行が「木」から始まるからです。

 (主体の存在しない)古地図が東を上としているのもこれが由縁です。また、19世紀中頃の中国を起源とする麻雀というゲームで親が東から始まるのもそうです。
 ちなみに、麻雀の親は東→南→西→北と移行するのですが、東の右隣が南の席であり実際の位置関係とは逆になっています。
これは麻雀が天の神がみが興ずるゲームとされたからです。

 つまり、たとえば薄い紙に東西南北を位置通り記して下から紙背を透かし見ればわかるように、天界では四方の位置が、地上のそれとは鏡像関係になっていると考えられたからです。

 なお、東西南北が左右対称の文字となっているのは、上から見ても下から覗いても同じに見えるよう意図されて生まれた漢字なのかもしれません。

 余談ですが、麻雀が天界の娯楽という設定は、地界で親(施政者)がころころ変わっては具合が悪いと考えたところによるのかもしれません。
2011年06月13日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その20)

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Ⅱ-⑦ 五色と宗教

 以上の5色、つまり青・赤・黄の三原色と白・黒の無彩色を五行説では五色(ゴシキ)と呼びます。

 しかし、儒教社会では先述のように五色の中でもそれぞれの純色を正色(ショウジキ、セイショク)としてきました。
そして、正色以外の色を少し嫌悪の意を込めてか、邪色あるいは不正色とも呼んできました。
というのも、邪色は主に仏教で用いられる色であるからです。

 つまり、儒教と仏教は歴史的にさほど相容れず、つねに弱い相反関係にあったからです。
寺院で用いる五色幕が緑、黄、赤、白、紫であるのは、これが由縁かもしれません。

 ここで、これらの宗教を整理し、非常に乱暴ではあるのですが、簡単に一言でまとめてみます。

 まず、儒教は中国漢民族の学問・思想の体系であって宗教ではないとする人もありますが、霊魂は不滅であるという考え方を持ち、先祖祭祀を行い重んじる点はまさしく宗教といえるでしょう。

 道教は神仙思想と結びついた、不老長寿を主な目的とする現世利益的な、やはり中国漢民族の伝統宗教です。

 仏教は、少し語弊があるかもしれませんが、そもそも一言でいえば悟り、すなわち真理(法)に目覚めることを最終目的とする宗教です。

 さて、儒家思想が中国の漢代に国家の教学として認定された以降、ほぼ一貫して儒教国家であった中国では、インド渡りの仏教ばかりか同じ漢民族の民族信仰であった道教とも折り合いが悪かったといいます。

 北宋代の仁宗が1034年に「雑花の相連接する」織文様、すなわち唐草文様を禁じたように、儒家では一般に唐草文様を嫌います。

 イスラム教が偶像崇拝を禁じていることから、イスラム寺院の装飾にはアラベスクが用いられました。このアラベスクは唐草文様を高度に発展させた文様です。

 儒家の唐草嫌いは、このイスラム教に対する布教抑制の一手段がその目的だったのかもしれませんが、このため唐草文様は儒教とやや対立する超世俗的な仏教や、道教の荘厳文様(装飾文様)として発達しました。こうした経緯から、たとえば仏教美術では唐草文様を多用します。

 唐草文様は連綿と続くことから仏教では法灯の連続を示すとされ、同時に子孫繁栄を意味する吉祥文様と付会されます。
しかし、ややこしいことに、この子孫繁栄を重視するのが儒教であり、それは子孫が途絶えると先祖を祀る者がいなくなるというのが理由です。

 このように仏教は中国を経由して日本に伝わったことから、日本の仏教文化は中国で生まれた宗教である儒教や道教の影響も少なからず受けています。たとえば、ここまでに紹介した仏教説話はすべて道教の影響を受けて成立したものです。

 ただ、わが国では学問や道徳規範としてはともかく、儒教を生のままの宗教しては受け容れませんでした。
そして、道教も日本では、たとえば陰陽道が取り込んだことはありましたが、独立した宗教として定着はしなかったようです。

 さて、そこで神道はというと、仏教が伝来するまで宗教としての体裁は整っていなかったといいます。神社建築も仏教寺院がつぎつぎと建立された以降のことです。

 それが日本での仏教の容認と同時に、これに抗するため陰陽五行といった外来思想、なかでも主に同じ多神教である道教の考え方などを取り込んで、理論化、体系化が進められたといいます。

 ですから、たとえば神道における決まり事には陰陽五行思想の強い影響があり、そして神道は道教で特徴的に見られる現世利益的な側面をもつようにもなりました。

 しかし、先に記したように、神道の教義は一言でいえばケガレをハラうところにあります。
そして、ケガレが人の行いの濁って清からぬ意を持つようになり、ミソギハライといった救済システムが備えられた以降、日本の民俗信仰に過ぎなかった神道が一つの宗教に昇華します。

 ただ、神道は国家をまたぐ普遍宗教にはなりえないものです。というのも、神道が日本の環境風土に即して生まれ発展したものであり、日本でのみ生息が可能であると考えるからです。

 さて、つぎに五色以外の重要な色、紫について考えてみたいと思います。
2011年06月12日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その19)

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Ⅱ-⑥ 黄

 黄色が五行説において中央に配されたのは、中国大陸の黄土と無縁ではありません。
そして、中国が世界の中心とする中華思想を基にするのか、五行説においては黄色が五行の根本となる色とされており、これには中国で邪をハラい疫を防ぐという信仰があります。

 また、黄色は中国の天子が「黄衣」とも呼ばれたように、かつては皇帝しか使えない禁色でした。
たとえば北京にある紫禁城の屋根瓦が黄色であるのは、かつて紫禁城が皇帝の宮殿であったからです。

 ただ、日本では黄色がさほど尊貴な色として扱われてこなかったようです。
飾り気がない色の意味で「生(き)」とした、という「黄」の語源説の一つがあるのも、黄色を権威性と結びつけて考えてこなかったことを裏付けています。

 また、たとえば天皇の袍の色は黄櫨染(コウロゼン)、皇太子の色は黄丹(オウニ)とされます。これらは現代に至るまで禁色とされている色です。
いずれの色名にも「黄」が付いていますが、黄櫨染は中明度の褐色であり、黄丹もどちらかというと赤系の色です。

 古代日本では黄がアヲ・アカ・シロ・クロといった基本的な色彩語に含まれてはいませんでした。
それは、これら4色には形容詞があること、たとえば赤を「アカい」というように黄には「キい」という語がないことからも知れます。

 なお、これを緑について敷衍すれば、「ミドリい}という形容詞がないことも、緑が青の一構成要素と認識されてきたことがわかります。

 また、奈良時代には黄が単独で色名として用いられた例がなく、黄の色名は平安時代以降に確立したとされます。
 それまで「黄」は「赤」の範疇とされてきました。

たとえば白木(素木)が経年によって黄色の濃いものに変わった色を、表具など伝統工芸の世界では今でもアカ(イロ)と称しています。
そして、薄い黄(生成り色)が、白と同義で扱われたことも黄の色名として独立するのが遅かった理由でしょう。

 なお、障子紙など手漉きの紙には表具の世界で符丁する、白口(シロクチ)と赤口(アカクチ)があります。

白口は苛性ソーダ(強アルカリ性)など化学薬品を使って漂白した、真っ白の雪色をした紙をさします。

 これに対し赤口は、化学薬品のなかった頃から伝統的に用いられてきた木灰(モクバイ)の上澄み液(弱アルカリ性)を使って漂白した、生成り色の紙をさします。

つまり、赤口とは、それまで存在しなかった白と区別するため、「黄」ではなく、「赤」で形容した語ということです。

 このように日本では五行説を受け入れつつも、こと色彩に関しては五行説で説明できるものがそう多くなく、日本古来の意味性を保存してきたといえます。

 ただ、それは日本に限ったことではありません。
というのも、色彩感覚は時代や地域において培われるものであり、その文化を反映するものであるからです。

 さて、そもそも黄色は明るく現世的な色です。天平時代に極めて愛好された色が女郎花(オミナエシ)の黄色であり、万葉時代でも山吹の花が非常に好まれたといいます。

 なお、お葬式の献花として多用される菊の異称は黄華といいますが、菊が葬式と関連づけられるのは、菊を墓参に用いるという西洋の習慣によるといいます。

 ところで、今日、お葬式などでの香典袋には白と黒の水引が使用されることが普通ですが、喪が明けた後の法事では白と白の水引や、総銀(銀と銀)の水引も使用されます。
それは白黒の水引ではふさわしくないというのが理由です。

 しかし、関西地方では忌明け後の法要で御供物料を渡すとき、その包み紙には多く白と黄の水引を使います。
これは、京都で公家は仏事にすべて黄白の水引を用いたという作法にならった慣用といいます。

 あるいは、神葬祭で、たとえば黄と白の二色旗などが葬列用具として、また黄と白の幟を用いた真榊(神事の場で祭壇の左右に立てる祭具)が用いられるように、神道祭祀を根拠にするのかもしれません。

 ちなみに、この神葬祭の最初の儀式、「枕直しの儀」では故人の死を報告した後、神棚の前にシロい和紙を下げます。
これを「神棚封じ」と呼び、仏事でいう四十九日に当たる五十日祭でこの封じを解きます。
2011年06月11日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その18)

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麻の葉文
 これまでに述べてきた麻とは大麻(オオアサ)をさします。大麻は古代から栽培され続けた、日本人にとって重要な植物です。

 麻の葉文(麻の葉模様)はこの大麻の葉を象ったものといわれますが、実際の大麻の葉形とはかなり違っています。
麻の葉身は掌状に7片に裂けていることが普通ですが、麻の葉文は正六角形を基礎にして構成された幾何学模様が、必要箇所へ全面に充填された文様です[図-8]。

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[図-8:麻の葉文]

 そして、この麻の葉文をよく見ると、その単位形象、すなわち麻の葉紋が二等辺三角形で構成されているのがわかります[図-9]。

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[図-9:麻の葉紋]

 ちなみに、文様という語は、模様とほぼ同義で用いられますが、「模様のうちでも一定の単位形象が繰り返され、これが面全体に展開されたもの『新潮世界美術辞典』」を文様と呼ぶことが一般的です。

 また、文様は紋様とも書きますが、紋とは狭義には単位形象としての文が高度に発達し、象徴的な意味や記号的な機能を具えたエンブレムや紋章をさします。

 ここでは、その単位形象を「紋」、これが面全体にわたって展開されたものを「文」と書き分けることにします。

 さて話を戻しますが、こうした麻の葉紋などを構成する三角形を、日本人はかつて「目」と呼び、そして古より三角文(紋)を呪術性の高い魔除け文(紋)として扱ってきました。

 さらに「目」を陰陽の影日向、すなわち白ヌキとベタで表し、三角形の連続文にしたものを蛇の鱗に見立てて鱗文と呼んできました[図-10]。

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[図-10:鱗文]

 ちなみに、太極図と同様、白ヌキが陽、ベタが陰とされます。これは囲碁で用いる白黒の碁石もそうであり、尚陽の思想に照らして、白は黒に対しての優位性を持ちます。

 この鱗文を中国では古来、龍の鱗を示すものとして吉とします。

 しかし、たとえば世阿弥「恋重荷」で老庭守の怨霊が、また「道成寺」で鐘入り後の白拍子が装束とするように、鱗文は能楽や歌舞伎といった日本の古典芸能の世界では幽界や死者を寓意します。

 鱗文が陰陽の影日向、すなわち陰陽を合したスタイルで表されるのは、劇中の設定とはいえ、怨霊や死者のタタリを畏れたからでしょう。
つまり、陰陽和合をもって魔除けとなし、タタリの表出を防いだのでしょう。

 葬式の際、近親者や棺担ぎ役が三角形の紙を額(ヒタイ)へ紐で取り付ける習俗があります。また、死者に付けさせるところもあります。
これを紙烏帽子(カミエボシ)といい、三角の紙は紙半(シハン)とも呼ぶように、正方形の白い紙(または麻布)を半分に折ってつくります。

 この紙烏帽子もまた、死者のまがまがしい魄(ハク)から身を守る護符のようなものだったのでしょう。日本で描かれたかつての幽霊図も、たいていこの紙半が額に印されます。

 さて、大麻の神道的な象徴性を考えるとき、逆に麻の葉紋をなかば強引に「麻の葉」と呼んだのかもしれません。
これは麻の葉紋が六角の星形状であり「六」が神道における神数(後述)であるから、および目を持つからと考えます。

 ところで、御守りの祖形は、麻や茅を切って包んだものといわれます。
御守りとは身に付けることによって呪具としての機能を果たすものであり、麻布の、あるいは麻の葉文を有する衣服を着用することには御守りと同じ意義があったものと考えます。

 かつて生まれたばかりの赤ん坊には、麻の葉文の産着を着せることが普通でした。これは麻が真っ直ぐに、早く、しかも丈夫に育つという意味を含んでいるからといいます。

 しかし、この産着の模様に麻の葉文を多用したのは単なる意匠や縁起担ぎというだけでなく、こうした魔除けの具としての働きを期するものだったのでしょう。
経帷子(キョウカラビラ)にも、先述の桶棺をくくる布にも白麻が使われます。また、火葬後の骨灰を墓へ埋葬する際の包み布にも用いられます。

 ところで、麻の葉紋はさらに目を凝らして見ると、篭目紋と呼ぶ形に似ています[図-11]。

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[図-11:篭目紋]

 そして、篭目紋は、竹などで編まれる篭の目を象った篭目文の単位形象です[図-12]。

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[図-12:篭目文]

 この篭目紋は、ある正三角形へ、頂点を真逆にした同じ大きさの正三角形を、重なり部が正六角形となるように重ね合わせたマークです。
そして、これら正逆の三角形を、それぞれ陽と陰になぞらえ、篭目紋は陰陽和合を表すとされてきたことから、招福のシンボルとして古くから用いられてきたものです。

 この篭目紋を中国では六芒星(ロクボウセイ)といいます。
また、ユダヤ教ではこれを神聖な図形とみなしていることから、たとえばイスラエルの国旗中央にも描かれます。このとき篭目紋は「ダビデの星」とも呼ばれます。

 こちらは麻の葉紋のように対角線で分割されていませんが、やはり「目」を持ちます。そして、篭目紋は洋の東西を問わず、魔除けの機能を有しているといわれます。

 ちなみに、時代劇で見られる罪人が護送されるときの駕籠を唐丸駕籠(トウマルカゴ)といい、これは竹製の篭へ咎人を入れ担ぎ棒で吊して運ぶものです。
 この竹製の篭が篭目で編まれているのは、罪咎がケガレとされたことから、篭目にケガレ封じを期したものであったのかもしれません。
2011年06月10日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その17)

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 麻は古来、神聖な植物とされ、麻には神が宿ると信じられてきました。
これは、麻の繊維から神道儀式の用具、たとえば神社の鈴縄や注連縄(シメナワ)、またケガレをハラうための大幣(オオヌサ)がつくられることからも知れます。

 ちなみに、大幣とは大きな串に付けたヌサ、あるいはヌサの美称をさします。また、大麻と記されることもあります。
それはヌサがそもそも神へ供える麻布であるからです。

 このヌサはハラう対象へ振って用い、これによってヌサへケガレが移るとされているものです。つまり、ケガレは移すこと、触ることによってハラうことが可能と考えられてきたものです。
ですから、麻にはこうした機能が具わっていると信じられてきた、と考えることができます。

 麻は横綱の化粧まわしにも使われます。
これに用いられるのはケガレを防ぐため、相撲が神事であったため、といった訳ばかりでなく、麻繊維が極めて強いことから、力強さを表しているという理由もあります。

 そして、繊維を取った後の余った茎である苧殻(オガラ)は、神事の一つでもあるお盆の際に迎え火・送り火を焚くのに用いられます。

 以上のように、麻は神道と深く結びついています。

麻布と紙
 麻は古代の重要な衣服の原料でした。以前は木綿布に対し、麻布が上布(ジョウフ)と呼ばれたように、神話に見られるミコトの衣服はすべて麻製のものであったといわれます。

 さて、「白羽(シラハ)」は衣服の古語であるといい、これは長白羽神(ナガシラハノカミ)に因みます。
長白羽神は麻を植えて織物を広めた神で、『古語拾遺』には天照大神が岩戸へ隠れたとき、麻で青ニギテをつくった神と記されます。

 さらに津咋見神(ツクヒミノカミ)を使わせて穀木を植えさせ白ニギテをつくらせた、ともあります。
 「(穀木は)木綿である」と注釈されますが、この「木綿」は「もめん」ではなく、「ゆう」と読みます。
ユウは和紙の主原料である楮の皮を剥ぎ、これを糸にしたもので、今も幣帛(ヘイハク)で用いられます。この幣帛とは神社で、神饌を除く神前に奉献するものの総称をいいます。

 ですから、古代には楮が「穀」、あるいは「紙麻」と記されることが多くあります。この紙麻はカミソ、あるいはコウソと訓み、これがコウゾ(楮)の語源になったといいます。

 なお、『古語拾遺』は平安前期に成立しており、この頃にはすでに楮が紙の主原料として用いられていたのですが、それ以前は麻布を使って紙漉きを行っていたといいます。
これは原初的な紙の製造法によるもので、中国後漢代の蔡倫(サイリン)が普及させたものも、麻屑や破れた漁網を使って漉いた、今日では紙とは言い難い「不織布」です。

 さて、以上の経緯から知れることは、古くから麻と紙が非常に深い関係にあったことを物語るところです。

 ところで、奈良時代は檀(マユミ)の樹皮で紙を漉いていたといいます。檀の実は熟すと果皮が割れ、真っ赤な種子をのぞかせます。檀の新芽は食用野菜となりますが、この赤い種子には毒があり、少量でも食すると吐き気や下痢を起こします。

 そして、この檀は以降の朝廷・幕府が明治維新に至るまで一貫して用いてきた高級公用紙、「檀紙(ダンシ)」にその名を留めています。
これに見られる二面性も、檀の格の高さを担保するものであったのかもしれません。

 さて、麻が青を象徴するのは染めているのではなく、その繊維が青みがかっているからだとする人もいます。

 しかし、ほとんどの植物にはタンニン酸が含まれます。タンニン酸は植物が自らの防菌のために備える茶系の色素です。
植物から繊維を採りだして利用するには、これをできるだけ取り除くのですが、残余のタンニン酸が生成り色の元になります。

 したがって、麻も例外ではなく、伝統的な手法で精製された麻繊維はやはり生成り色であり、青ニギテは本初から山藍によって染められたと考えるほうが妥当です。
麻衣という語も、大字典によると「しろき服」という意味であることからもわかります。

 ちなみに、先述の神官仕立や御霊神用の表具で上巻、すなわち掛軸の外装に用いる部材の色は浅葱色のものを用います(上巻→[図-2]参照)。

 これに対し、仏画作品の外装には紺の中でも最も深くて黒とも見紛う、「留紺」と呼ぶ色を用いるのが表具師の口伝です。
2011年06月09日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その16)

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アヲとシロ
 淡い藍色、浅葱は葱(ネギ)の葉色に似るところからの名称といわれますが、藍の色名には他に「葱(ネギ)」を当てた字がありません。
ネギの葉は確かに青いのですが、さほど淡い青でもありませんし、今日いうところの浅葱色よりは、どちらかというと緑色系に傾いた色相です。
 ですから、たとえるなら他にもっと適切な語があったでしょう。

 イザナギの「ギ(キ)」は古語で男性神を表すのが定説です。そして、浅葱色は紙のシロ色とともに神道的なものへ配される象徴色です。
こうしたことから浅葱は「あさ(麻)ギ」と見るのが正しいのかもしれません。

 つまり、藍で薄く染められた神聖性を帯びる麻(青ニギテ)を、そのまま色名として用いてきたのかもしれません。

 もしそうであるなら、浅葱は「あさ」+「ぎ」で麻の男性神を表すものとなります。
紙が先述のように女性神を表すことから、麻と紙、すなわち青と白がペアで扱われてきたのは、こうした理由によるものと考えることができます。

 『古事記』によれば、天つ神系を代表する色が青と白とされます。
この青が青空を意味し、白日が太陽を示す、あるいは太陽光から生まれる白色が日中(白昼)を表すように、青と白が、天から降ってきたという謂れを持つ天つ神を象徴するには妥当なものがあります。

 そして、この神道で用いる青は前項で見たように、本来が山藍を用いて染めた色であるので、青とはいえ今日でいう緑に近い色です。
これを以降は、アヲ色と呼ぶことにします。

ウラジロと風神雷神
 新年の鏡餅や注連飾り(シメカザリ)に使われるウラジロ(裏白)の葉は、その名から知れるように、表が緑色で裏は白色という、アヲとシロのコンビネーションを持ちます。
 ウラジロは古来「とも白髪」、つまり夫婦和合と長寿を象徴するものとされ、縁起物や依代として正月飾りに用いられます。

 この植物が長寿を意味するのは、その葉が常緑であるからでしょうが、夫婦和合を示すのはアヲとシロが夫婦と考えられ、それが表裏一体、すなわち陰陽和合を具体化するものとなっているところからでしょう。

 あるいは、ウラジロのアヲとシロといったスタイルと天つ神の象徴色との符合を考えあわせるとき、ウラジロは天つ神そのものを表象するものであるのかもしれません。
 そして、このコンビを天つ神とするなら、アヲ(緑)と白で描かれた風神・雷神は、国つ神(鬼)の姿で表現された天つ神であるといえます。

 アヲい風神の持物である風袋がシロで、シロい雷神の下穿きがアヲで着彩されているのも、こうした理由でしょう。
つまり、宗達は暗に両柱が天神であると示唆しようとしたのではないか。あるいは、天つ神(アヲとシロ)を纏わせることによって、風神雷神のタタリを封じ込めようと意図したのかもしれません。

 いずれ宗達は芸術的な表現とは別に、こうした明確な意図でもって緑と白の鬼を描いたのだと思います。

 また、重要文化財にも指定されている尾形光琳による風神雷神図の模写画で、宗達本と異なり雷神の襷がアヲ(緑)で描かれているところは、このあたりを強調したものと考えます。

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[尾形光琳 風神雷神図]

 ただ、光琳によるものには宗達のそれと異なり、落款(サイン)が見られます。これは本図が模写画であったという理由ではないでしょう。
このサインには、礼拝用ではなく、純粋に芸術の対象として描いたという光琳の画家としての意図が汲み取れます。

 ちなみに、近世以前の屏風絵は、ほぼ例外なく季節を象徴する景物が描かれます。屏風絵作者はこの春から冬の時間的推移を、陰陽五行にしたがい、先述のように右から左へ向かって変化させます。

こうした時間的な経過が表現された屏風絵に落款を記す場合は、向かって左側へ立てるものの、しかも一番左の下に為されます。

 ところが、近世以降の屏風絵には時間的経緯が見られないものも多くあります。
このような屏風へは、落款が向かって右に立てるほうでは画面右下、左では左下に為されています。
これは主体が中央にあると仮定するものであり、中央を避けて落款が為されたものでしょう。

 光琳本になされた落款も同様にそれぞれ右下、左下にあることから、宗達本と同じく、両図の真ん中に何らかの主体を想定していたことは間違いありません。

 神道では偶像崇拝を禁じていると先述しましたが、神の姿を具象化することがタブーであったことも、風神雷神の不明さを助長してきたと考えます。

 また、天つ神系の神がみに対しては口にすることさえも憚られていたのかもしれません。
つまり、「察する」ことが必要なのであり、風神雷神図の正体が長らく謎とされるのもこうしたところに由縁するのでしょう。

 いいかえれば、当時の人たちにとって風神雷神の正体は、あえて説明せずとも自明のことであったと考えることができます。
宗達本の風神雷神図は現在でこそ国宝にまで指定された著名な作品ですが、江戸時代にはあまり知られておらず、その記録や、この屏風絵に関する文献が残されていないことも、これを裏付けています。

 ところで、日本では日本美術に対する図像学(あるいは図像解釈学)があまり発達していません。
図像学は多く民族の宗教観をその基本の手段とするものであり、日本の神がみに対する以上のような性向が、日本の図像学の発展を阻んできたのかもしれません。

青白幕
 今日の葬儀において、黒白幕以外に多用されるのが青白幕です。
これをもって青白幕は縁起が悪いとする人がいますが、青白幕は地鎮祭のときにも使われます。

 地鎮祭では麻製の注連縄(シメナワ)と紙製の四垂(シデ)で結界を構成すると述べましたが、青と白がそれぞれ麻布と紙とを意味するなら、地鎮祭で青白幕を用いることにはうなずけるものがあります。

 というのも、青白幕は高齢でなくなった方の葬儀に限り用いるとする地方もありますが、青白幕はかつて吉凶にかかわらず用いる幕とされてきたからです。
 つまり、青白幕は結界を意図するものであり、たとえば地鎮祭の場合は域内の清浄を、葬儀の際は域外の清浄を約束するものなのでしょう。

 ところで、この幕を地鎮祭に列席する機会が多い建設業界では「あさぎ幕」と呼んでいるそうです。
これは青のストライプが歌舞伎で使われる「あさぎ幕」と同じ色をしているために、こう呼ぶようになったといわれます。

 この「あさぎ」には多く「浅黄」という字が当てられますが、本来は先に記したように「浅葱」です。そして、古来、アヲとキが混同された例はありません。
アサギの「ギ」へ「黄」を当てたのは、おそらく葱という字を当てる妥当な理由が思い浮かばなかったからでしょう。

ただ、古くから栽培されてきた葱もまた、その葉身と葉鞘がアヲとシロのコンビネーションを持ちます。この様子をもって青白幕を浅葱幕と呼んだのかもしれません。

 次回は、麻について考えてみたいと思います。
2011年06月08日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その15)

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Ⅱ-⑤ 青

 青という字は本来「」と書きます。これも五行説から生まれた漢字で、木は火を生ずると考えられたところからです。
 つまり、木は火の配当色である「丹」を生ずるものであることから、「」は「生」と「丹」を合字することによって生まれた漢字であると説明されます。

 なお、「青」が草木生成の色とされたことから、五行の木に青色が配当されたといいます。

藍の色
 正色として五色の青に相当する色は、縹(ハナダ)とされます。

これは古くから知られた藍染における色名の一つで、平安時代には「はな」と略したり、「花田」といった字を当てたといいます。
 なお、表具の世界では、なぜか緑色をさしてハナ色と呼び習わしています。

 さて、藍染に古くは日本で自生する山藍(ヤマアイ)が使用されたといわれますが、中国から質のよい蓼藍(タデアイ)が6世紀頃に伝わり、以降はもっぱらこれが藍染に用いられたそうです。そして、この蓼藍から生まれる色が今日でいう青色を示します。

 ちなみに、青の旧仮名遣いは「アヲ」であり、「アヰ(藍)」は「アヲ」が転訛したという説があります。

 あるいは、江戸時代の語学書『言元梯』によると、藍は「天居」の義としています。この天居は雲居をさすと考えられ、雲居は空の高いところ、つまり天上を意味することから、その青空の色を藍と呼んだということです。

 ただ、藍色はかつて藍で染めた後、黄蘗(キハダ)と呼ぶ黄色の染料を施したそうです。こうして現れる色は青緑色です。
 一説に古代の藍と黄蘗で染め合わせたこの藍色は、山藍から得られる色調を現すものといわれます。

こうした山藍の染め色によるものか、かつて日本では青と緑の呼び名の区別が曖昧であり、今でも信号機の緑をアヲと呼んでいるように緑もアヲと呼ぶことが多くありました。

 ただ、これは漢字圏の国家で暮らす人間に共通する性向ともされ、それはおそらく青が五行で草木生成の色と定義されたことからでしょう。
青黴(アオカビ)・青田・青葉・青虫などに相当する英単語がすべてgreenで形容されることからもこれが知れます。

 したがって、五行説でいう五色の青は緑系の色までを含んだ幅広い色をさします。そして、これは古代の日本においても同じことがいえます。

ニギテ
 神への供物、あるいは神へ供える麻布をニギテといいます。そして、特に麻布を青ニギテ、素紙を白(シラ)ニギテと区別して呼ぶことがあります。

 この青ニギテの青は正色の青でも、五色の青でもありません。一説に、この青は青空の青ともいわれます。

 そして、たとえば掛軸には天神系、および天皇に関わる作品で用いる、神官仕立と呼ぶスタイルがあります。この様式で仕立てる場合、作品の廻りには浅葱色(アサギイロ)、すなわち藍で極めて薄く染めた青を用います。

 なお、天つ神の天神に対して国つ神を地祇(ジギ)と呼ぶことがあります。
これらは一般に併称され天神地祇、あるいは神祇(ジンギ)と略されますが、表具では先述のように天神と地祇に対する表具スタイルを伝統的に違えています。

浅葱色
 藍染は、一般に染める物を原料藍が入る藍瓶(アイガメ)の中へ、浸け染めることによって行います。
そして、その浸ける回数によって色に濃い薄いができ、それぞれ異なった呼称が与えられています。

 こうした藍染の色は、現在では大まかに薄いほうから浅葱-縹-藍-紺と呼ぶのが一般的です。
さらに、これらは段階的に細分化され、たとえば浅葱は薄いほうから藍白あるいは白殺し、その次が瓶覗(カメノゾキ)といったように、藍染による色には十数通りで個別の呼び名が与えられています。
その名称の多さは古代以降、藍が主要で重要な染料であったことを示しています。

藍は今日、身近なところではジーンズで多用される染料です。そして、そもそもジーンズに藍を用いたのは生地の強化を目的とします。
また、藍染料は虫除けにも効果があり、加えて毒グモや蛇除けのためという説もあります。

 日本でも、藍染の着物には防虫剤が必要ないといわれるように、藍は極めて防虫効果が高い染料とされます。
また、藍畑には蛇が近寄らないということから、ジーンズへ蛇除けに使用したというのも、あながち根拠のない話ではありません。

 しかも藍は古来、生地に強化作用を与える染料としても知られてきました。
昔から野良着やモンペなど、また塩水や潮風にも強いことから漁師の衣服にと、丈夫さが要求されるさまざまな作業着に使用されてきています。

 さらには火にも強いことから、江戸時代には藍染の衣服を火消し装束として、また明治以降はボイラーを炊く機関士のユニフォームとしても使用してきました。

 藍染料の色素「インディゴ」は不溶性物質であり、そのままでは染めることができないので、細菌で発酵させることによって染めやすくします。
この発酵を担う菌には生地を堅牢にする働きもあります。
しかも、これは染色後も長く繊維の中で活動し続けるため、藍で染められたものは年を経るごとに色鮮やかになってゆきます。

 ですから、奈良時代から江戸時代の装束も藍染によるものは、多く滅損することなく現在まで残っています。

 ところで、先述の日本オリジナルで最古の染料植物、山藍はタデ科の植物でないので、藍の色素「インディゴ」を含みません。

 したがって、山藍で染色するには発酵過程を経ず、その葉の汁を生のまま擦りつけて行います。山藍摺(ヤマアイズリ)は、この原始的な摺染(スリゾメ)の名称で、青摺(アオズリ)ともいいます。そして、こうして得る青(緑)は、さほど深い色を呈しません。また、褪色も起こります。

 古代には摺染の衣服を摺衣(スリゴロモ)といい、神事用の衣裳に用いました。平安時代の鳥羽天皇の頃には、庶民の摺衣着用を禁じたという記録もあります。

 しかし、なぜ多くの特長を持つ蓼藍よりも、製品として劣る山藍によるものを重んじたのでしょう。
2011年06月07日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その14)

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当色の黒
 かつて、わが国では律令制を導入したことに伴い、袍(ホウ=公家装束における上衣)などへ用いる、公家の位階に応じた位色、すなわち当色(トウジキ)が定められました。
そして、定められた自身の位の色以外は禁色とされます。

 この当色が、平安時代の初期では天皇の交代にしたがって変化しました。特に、一条天皇時代に、これの大幅な修正が行われます。
それは一位から四位までを鈍い艶のある黒とするものであり、この新位色は江戸時代の末頃まで続けられます。

 これは、養老2年(718年)に定められた『衣服令』で一位=深紫、二・三位=浅紫、四位=深緋とされていたのが、これらをより深い色に染めようとする風潮が広まり、一位から四位の袍が一見黒のような色になったからといわれます。

 玄鳥(ツバクロ)が艶やかな黒羽根を持つ燕の異称であるように、また艶のある黒と白との組合せを鯨幕と呼んだように、位色のクロには深みを感じさせる艶があります。
それは繻子織の絹に染色がなされたからです。
つまり、絹の光沢が染められた色に加わったものです。袍に使用された場合は、これを黒袍(クロノホウ)といいます。

 ちなみに、西洋においても艶のある重厚な黒色はクラシックでフォーマル、あるいは威厳を示す色として認識されています。

 ところで、『源氏物語』の「若紫」には服喪に纏う衣の色が「鈍色(ニビイロ)」と記されます。
平安時代の鈍色は無彩色系の鈍い鼠色でしたが、後世には薄く藍をかけた青みの鼠色をさすようになります。

この系統の色で、天皇の喪服(ミソ)の色を特に錫紵(シャクジョ)といいます。
錫は青みの鼠色、紵は麻の意味であることから、錫紵は青みの薄墨色に染めた麻布ということになります。

 鈍色と同じように服喪の衣に使われた色が橡(ツルバミ)色です。橡は、櫟(クヌギ)の古名で、そのドングリを使って染色するものです。
そして、橡色は鉄媒染で黒みの鼠色としたものです。

この色が黒袍の色とされましたが、喪に用いる橡色は真っ黒ではありませんでした。また、服喪の衣服に用いられるのは麻布であり、発色は光沢を伴いません。

 『源氏物語』の「賢木」には「藤衣(フジゴロモ)の御衣(オンゾ)をお召しに」なった源氏が、父君、桐壷の帝の喪に服する姿が記されています。
 『日本国語大辞典』によると藤衣とは「もと、(藤や葛など、つる性の植物の皮の繊維で織った布)の衣服を喪服として用いたからであろうが、後、麻で作ったものをもいう。中古の例は、大部分が喪服をさしたものである」とあります。

 今日、ご婦人が法事や通夜で藤色の和服に黒い帯を締めることがありますが、この姿はこうした故事を踏襲したものでしょう。

 ただ、かつての藤衣は決して藤色ではなく、また黒でもなく、日本の葬送後の喪服には無彩色系の薄色を用いることが普通でした。
これは白装束が日にちを経ることによって、くすんだ色になったということを表したかったからかもしれません。
いずれにせよ現在では、葬儀の際もその後の服喪の衣服にも黒を用いることが通例となっています。

 こうしたわけで、今日の葬儀で用いる黒白幕も、鯨幕のような艶のある黒と白とのストライプではなく、墨染色のくすんだ黒と白、あるいはグレーと白の組合せを用いることが普通です。

 ところで、弔事の際に不祝儀袋などへ毛筆で表書きする際は、薄墨を使用しなければならないというのがマナーとされます。
 これは悲しみを表すため、涙で墨が薄れるという意から薄墨を使用する、あるいは葬儀は急な事で、墨をする時間がなかったので薄墨になったという意を示すものとされます。

 しかし、油煙墨(菜種油などから作る最も一般的な墨)を良質の硯で濃くすると、墨色は艶をたたえた美しい黒色を呈します。
ですから、艶のある黒が式正用である、「逆さごと」ルールが働いた、あるいは喪色がそもそも薄墨色であるといったことを理由に、弔事で薄墨を用いるのでしょう。

 このように日本では、艶のある黒とそうでない黒を厳密に区分してきました。

黒い地獄
 第1章で地獄の色は黒であると記しました。ですから、黒色にも不吉な臭いをかぎ取ってきたことがあったかもしれません。

 地獄は本来が地獄道といい、仏教の説く六道(リクドウ)の最下層とされる世界をいいます。
六道とは広辞苑によると、「衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界」であり、これには下層からいうと、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道があります。

 地獄の色が黒とされるのは、仏教説話によると餓鬼(道)へ赤、畜生(道)には黄、修羅(道)へは青が配されることから、この三色を混ぜると地獄の黒になる、という理由です。
赤鬼や黄鬼、また青鬼はこれに由来するという説もあります。

 ただ、この黒が艶をもって表現されたかどうかは定かではありませんが、いずれ観念的なものであり、強いていえば漆黒の闇が連想されるような色を想定していたでしょう。

 ところで、同所に地獄からの救済を担うのが地蔵菩薩であるとも記しました。
それは地蔵菩薩が、そもそも六道に輪廻(リンネ)して苦しむ衆生を一人残らず教化救済することを本願とする菩薩であるからです。

 そして、浄土信仰が普及する平安時代以降、極楽浄土に往生できない者は地獄へ堕ちる、といった考えが広まり、この地蔵菩薩へ特に地獄からの救済を求めたからです。

 さて、白、赤、黒について見てきましたが、次節では五色を構成する青色と黄色についても考えてみましょう。
2011年06月06日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その13)

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Ⅱ-④ 黒(玄)

 五行説でいう黒も厳密にいえば真っ黒ではありません。このクロには元来「玄」という字が当てられます。そして、玄は黒くして赤色を帯びる幽遠な色とされます。

 ちなみに、「白」はそもそも「素」とも書く、と先に記しました。玄人を黒人、素人を白人と書かないのは、こうした五行説によるものでしょう。

 玄の色は古来、天の色とされてきました。そこで、玄は上帝を意味することがあります。この上帝とは、中国では天上にあって万物を主宰する者とされ、天帝、あるいは地上の主宰者である天子にもなぞらえられます。

 以上のように、玄色はそもそもが格式の高い色とされてきました。これが慶事に鯨幕を使用してきた根拠です。

 ところで、日本では式正とされる白地に黒文字が、中国では赤地に黒文字とされます。
つまり、中国では白を弔事にだけ、日本では慶事にも使用することから、鯨幕も日本でのみ用いる慶事の象徴といえます。
また、白を聖俗にかかわらない区切りとして用いてきたこともわかります。


 鯨幕の名称は鯨の皮と、その脂身からの連想によって生まれたものとされます。
すなわち、皮が艶やかな黒、脂身が白といったことから、このコンビネーションを日本人は「鯨」と言い習わしてきました。
あるいは、クジラの語源説の一つがそうであるように、「黒(くろ)」と「白(しろ)」をつなげて呼び、それが訛って「くじら」と呼ぶようになったのかもしれません。

 ところで、日本の沿岸部ではその巨躯による畏怖からか、鯨を祀る地域が多くあります。しかも漁村ではかつて、鯨がヱビスであると信じられてきました。

 先述のようにヱビスへ異民族をさす語を当ててきたように、ヱビスは海の向こうからの漂着神であり、異界からさまざまなものを恵んでくれる豊漁の神であるとされてきました。
ですから、ちなみに漁村では流木などの漂着物のみならず、海中から拾った石や水死体までをもヱビスと呼んできました。

 なお、恵比須の「須」はヒゲの意と先述しましたが、須には「待つ」という意味もあります。
特に「須つ(マツ)」は互いが互いを求め合って「まつ」ときに用いる言葉です。つまり、一方的に漂着物を待つのではなく、漂着物自体も流れ寄ることを心待ちにしているということです。
そして、なぜか鯨は生きたまま海岸に乗り上げることがあります。

 さて、鯨は沖から魚の群れを追い込んで漁業を助けてくれる、すなわち魚を恵んでくれるだけでなく、それ自体を食料、その他でも利用してきたことから、かつて「一鯨七浦を潤す」といわれてきたように、鯨を極めて有り難い存在として崇めてきました。

 捕鯨技術が低かった頃は、浜に寄り付いた鯨を狩っていたといい、こうした寄鯨や流鯨もまた海の神の贈り物とされました。
しかも、鯨自体がそれを望んでいると信じてこられたことから、次第に鯨をヱビス神として信仰するようになったのでしょう。

 縄文時代から食されてきた鯨は、食用の他に骨やヒゲなどが手工芸品の材料として、また糞が竜涎香として香料に用いられるなど、ありとあらゆる部位が利用されました。
そして、鯨はその巨躯にもかかわらず棄てるところがないとまでいわれた水産資源です。

 しかし、棄てるところがないというのも事実そうだったのでしょうが、(神様ゆえに)棄ててはバチがあたる、というのも理由の一つではあったでしょう。

 また、鯨肉は古くから尊ばれた食材です。たとえば『古事記』には神武天皇に鯨肉を奉った件があります。
室町中期に成立した『四条流包丁書』にも、鯨は鯉よりも格の高いものとして一番に出すべきだと書かれています。
さらに朝廷と良好な関係を保っていた豊臣秀吉が、宮中へ参内した折の饗応の膳に鯨料理が供されたのは、鯨が当時の上流社会で貴い品として認知され喜ばれていたものであることを意味します。

 このように、鯨は古来、特別視されてきた存在です。

 ですから、鯨幕は単にコンビネーションの類似からのみ称されたのではなく、その神聖さ、格式高さをも背景に命名されたものでしょう。

 ちなみに、古くから「鯛は大位なり、鯉は小位なり」と語呂合せされたように、鯛が海魚の王、鯉が川魚の王とされてきました。
すなわち、鯛が海魚であることから陽、川魚の鯉を陰として、尚陽の思想から鯛を鯉よりも格上としてきました。

 しかし、鯛が海魚の王とされるようになったのは意外にも江戸時代のことで、これは流通機構の発達を由縁とします。つまり、魚は専ら海のものが食されるようになったからです。
 ただ、海から遠い京都では、依然として鯉が宮中で格の高い魚として食され、このとき鯉は「高位」などとも呼ばれていました。

 いずれにせよ、商業捕鯨の発達によって鯨肉の供給が一般化するまで、鯨が最も格の高い食材として尊ばれていたのは間違いありません。
2011年06月05日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その12)

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 贈答品は箱に入れて包装することが日本人のマナーです。
たとえば手土産に菓子を持参する場合でも袋に入れただけのものでは相手先に失礼であり、必ず菓子折として箱に入れるようにするのが日本人の常識となっています。

 こうした箱に対する日本人の思い入れは特殊であり、箱はフォーマルで、箱に入っているということは高価な品であるということを日本人は無意識的に感じ取ります。
また、進物に限らず、自己使用の場合ですら日本人はしっかりとしていて、しかも高級感を醸し出すような箱を求める傾向があります。
なお、日本の過剰ともされる包装文化は、これに由縁するものでしょう。

 このような、日本人が昔から箱にこだわるところは、特に茶道関係の幾つもの書物によっても見られ、近世には西洋はおろか中国でも見られない箱書(ハコガキ)という特殊な習慣まで生み出しました。

 箱に入れることで、落下事故など物理的な衝撃に対する緩衝材としての役割はもちろんのこと、水濡れによる被害を防ぐなどの効果が期待できます。
しかも箱は短期的な温湿度の変化を調整する役割も果たします。たとえば美術館や博物館では作品の移送直後には開梱せず、充分に時間をおいてから行うことも、この効果を期してのことです。

 ところで、こうした箱に入れるといった習慣を重んじたことも、日本の気候風土に根差して生まれたものだったのかもしれません。

 湿度が高く、しかもその変化が激しいわが国にあっては、箱に収めることで中身の保存性を高めることが長い間に培われた生活の知恵と呼べるものであったでしょう。
実際、温度変化よりも湿度変化を緩和することが、美術工芸品保存の重要な課題です。
ちなみに、これはまた人の健康維持にとっても同様です。

 ですから、箱物に付ける紅白の紙と水引にも本初的には、こうした保存性を担保する意味があったのかもしれません。

 贈答品には、桐箱に入れたものもあります。桐は軽くて比重が小さいにもかかわらず、適度な強度があり割れや狂いが少ない材です。
また、比重が小さいがゆえに吸湿作用も抜群です。
桐のもう一つの特長は、たとえば高級な金庫の内張にも使用されるように、極めて熱を伝えにくい材であることです。

 桐箱はこうした特長により、あらゆる箱の中で乾燥や湿気に弱い物品を保存するのに最も向いています。

 また、箱に桐材を多用するのは、桐が適当に柔らかく、中に入れたものが箱とぶつかっても傷むことが少ないという理由もあります。
そこで、陶磁器の保管にも桐箱が用いられます。

 ただ、掛軸などの財物を桐箱に入れたのは、わが国にあって特殊な理由もありました。それは日本家屋の使用部材に木や紙が多用された都合上、火災が多かったことです。
 特に印籠箱(インロウバコ)、すなわち蓋が密着するようにつくられた桐箱は、かつて火災の際には井戸へ放り込んだそうです。

 このとき比重の小さい桐は水を吸ってすぐさま膨張します。すると、桐箱は蓋をしっかりと閉じてしまい、中へ水が侵入しないようになります。
これを火事の後に取り出し、財物の保全を図ったというのが日本で桐箱の普及した理由です。

 もちろん桐の箪笥も同様であり、箪笥の場合は井戸に入れることができないので、火事の際には箪笥へ水を掛け廻します。
ですから、婚礼の調度に桐の箪笥が喜ばれるのはこうした理由です。
そして、陶磁器もまた、火災における火力によって変色・変質することから同様です。

 ちなみに、地方によっては女の子が生まれたらすぐに桐を育て、お嫁入りの際にこの桐で箪笥をこしらえたそうです。
桐はその比重が小さいことからもわかるように、すくすくと大きくなります。桐を植えて箪笥としたのは、こうした桐の成長性に娘の健やかな生育を願った親心もあったでしょう。

 ところで、火災被害が甚大になるにもかかわらず日本家屋へ木や紙が多用されたのは、これらの自然素材がソフトな環境緩衝材として働くことを日本人は知っていたからです。
つまり、これらが湿度の高いときには湿気を吸収し、逆に低いときには水分を放出する機能を備えているからです。

 なお、表具でも屏風や襖などの下地へは和紙を幾層にも重ねて下貼を施します。
このような下地構造は、乾湿の変化に対し上貼が伸縮することによって生じるストレスを緩和させる目的で行うものですが、同時に水分を吸収・放出することによって湿度調節作用をも担っています。

 こうした経験知が日本人の自然を克服しようとするのでなく、自然と共生するといった志向を育んだ理由の一つと考えます。

紅白幕と鯨幕
 紅白は保存性を担保するものと述べました。それでは慶事に用いる紅白幕は何を畏れての、あるいは何の保存性を担保するものなのでしょう。

 赤飯と同様、古式に則った行事には登場しないように、実は紅白幕を慶事に用いる歴史は浅く、そもそもこの役目を担ってきたのは、鯨幕(クジラマク)と呼ばれる黒白幕です。
これは、皇室で現在でも慶事に鯨幕を使用されることからもわかります。

 逆に、今日でも地方によっては紅白幕を弔事に使っているところがあります。

 ところで、黒が喪を表すのは、明治の30年代になってからのことです。この頃、皇室の葬儀の折に欧化政策の影響で欧米の喪色である黒が喪の色とされ、大正期以降に黒の喪服が普及したそうです。
また、弔問者までが黒の喪服を着用するようになったのは1960年代以降とされます。

 しかし、それまで近親者が葬祭儀礼に用いる服は白装束(シロショウゾク)が普通でした。また、ご遺体に着せる死装束(シニショウゾク)も経帷子(キョウカタビラ)を除き、基本的に同じです。

 なお、黒不浄(死穢)は触れることによって生じます。ということは、白が赤とは逆に外敵からの備えを果たす、つまり紅白は内外の守護ということを意味しています。
包装に用いる紅白紙の赤を下にして白が上から被せられるのは、こうした理由によるものかもしれません。

お色直し
 裁判官が「いかなる色にも染まらない」といった理由で黒衣を着用するのとは逆に、花嫁が結婚式で白の衣裳を着るのは、現在では「いかなる色にも染まります」からと説明されます。

 そこで日本の花嫁は白打掛(シロウチカケ)を着装します。そして、今日の結婚披露宴では「お色直し」といい、途中で色打掛に着替えることが普通です。

 打掛は確かに式服ですが、幸せ一杯のはずの花嫁がなぜ死装束とされた白い衣裳を着るのでしょう。

 「お色直し」とは、そもそも「白を直す」という意味であり、白以外の衣裳に着替えることをいいました。
つまり、遺族は、亡くなられた方が荼毘に付される、あるいは埋葬されるまで着用していた白装束を、葬儀の後は服喪のための色つきの衣服に着替えます。
このとき「白装束」といった死にまつわる忌み言葉を避け、「色を直す」と言い換えたのが「お色直し」の本義です。

 結婚披露宴でのお色直しは、これを踏まえた上でのしきたりとされます。
すなわち、花嫁が死装束であった白を着るのは、生家を出るときひとたび死に、それから嫁ぎ先の家で色直しの赤い衣裳を着ることによって再び生き返るとされた習俗から起こったものです。
この再生の思想は先述のように神道での重要な教義の一つです。

 ただ、すると疑問が一つ湧き起こります。白はともかく、この場合には赤が「生」をも意味すると考えることができるのでしょうか。
確かに赤は五行説にいう陽の配当色であることから、こうした意味があるやもしれません。

 さらに日本では、墓石へ名前を刻むとき、死亡した者の名前へ青色、存命のそれには赤色の彩色がなされます。
これは日本独特の風習とされ、俗に「生きている者の血液は赤いことから赤で着彩し、死ねば青くなるから青で色を付けるのだ」と説明されます。
これも赤が生、青が死といった意味づけの元になされる習俗なのでしょうか。

 しかし、以上に見てきたような赤の意味を考えるとき、異なった解釈もできます。
すなわち、墓石の場合は生者の名を刻んだことが現実に死と繋がらないよう防ぐため。
そして、お色直しの場合は、他家から新たに入り込む嫁が当家に厄をもたらすことがないようにと願う舅・姑の心が、嫁にまず白を、そして後に赤を着させた理由の一つであったのかもしれません。

 ちなみに、同じ花嫁衣裳でも白いウェディングドレスには異なった意味があります。
それは西洋のイコノグラフィー(図像学)において白百合が聖母マリアの純潔を表すことから、白いウェディングドレスは花嫁の「純潔」を示します。
また、同じく赤は聖母マリアが着衣とするように西洋では「愛」を表します。

 このあたりの習慣が日本に取り込まれ、やがてこうした習俗の本来の意味が曖昧になってきたのかもしれません。

 さて、それでは喪を表すことのなかった黒は、かつてどんな意味を有していたのでしょう。そこで、つぎには黒について考えてみます。
2011年06月04日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その11)

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アワビのワタと鯛のワタ
 東北地方には「猫にアワビの内臓を与えると耳が落ちる」という言い伝えがあります。事実、猫へ与えると耳がもげるそうです。

 これはアワビのワタ(内臓)にある葉緑素が変成した、フェオフォルバイドという物質が原因とされます。
なぜ、そうした毒性をもつのかというと、アワビが葉緑素を含んだ海草類を食料にしているからです。

 フェオフォルバイドは人にも少なからず影響があります。アワビのワタを食すると、人によっては光過敏症を示し、たとえば日光に当たった肌が炎症を起こします。

 ですから、「(陽光が強くなる)春から秋にかけてはアワビ(のワタ)を食べてはいけない」と言い慣わされているところもあり、実際にも春先にアワビのワタを食べると中毒を引き起こすことがままあるそうです。

 さて、以上のことからわかることは、アワビが梅干と同じように二面性を持つことです。これがアワビを熨斗鮑として用いる際に紅白の紙で包んだ理由でしょう。
 あるいは、ワタ、すなわち「毒物」は入っていませんよという保証の意図があったのでしょう。紅白の紙にはこうした安全を担保する意味もあったのだと考えます。

 ところで、「腐っても鯛」という慣用句があります。これは本来すぐれた価値を持つものは、落ちぶれてもそれなりの値打ちがあることのたとえ、とされます。
そして、このときの鯛とは真鯛をさします。

 ただ、真鯛は一般に、海底近くの岩礁に棲むことから、真鯛の内細胞の外膜は、その高い水圧に耐えるよう極めて頑丈にできています。
ですから、「腐っても鯛」には水産業者の言によると「腹がしっかりしているから、ワタが腐っていても外観からはわからないので安心はできない」といった別の意味があるとしています。

 しかし、逆に真鯛は同じ理由で本来が極めて腐りにくい魚です。また、多少鮮度が落ちたところで、丹念に洗えば煮物や焼物として食べることができる付加価値の高い魚です。
 また、真鯛は『古事記』など古来多くの文献に見られ、正月や結納の縁起物としても使われるように日本では古くから馴染みの、しかも格が高い魚です。

 ちなみに、欧米では真鯛が食い意地の張っているところから「悪魔の魚」や「貪欲な下魚」とされ、中国でも「死人の肉を喰らう魚」として、日本のような高い評価はなされていません。

 ところで、古くから日本で真鯛が好まれてきたのは「めでタイ」といった語呂合せだけでなく、その赤い色にも理由があったのでしょう。
すなわち、赤い色が真鯛の腐りにくい根拠であると考えられてきたのだと思います。

 そして、鯛はその赤い体表の内に白い身を備えています。恵比寿さんが真鯛を抱えるのもこうした理由であるのかもしれません。

 ちなみに、「海老で鯛を釣る」の諺は、小さな元手で大きな利益を得ることを意味しますが、恵比寿さんが商業神であり真鯛を釣った姿で表現されることから、恵比寿さんと海老の語呂合せによって生まれたものともいわれます。

 また、もともと恵比寿さんが釣竿を持つ姿で描かれるのはコトシロヌシと習合したからといわれます。
それは記紀神話によると、国譲りの要請を受諾する際に、コトシロヌシが釣りをしていたとされるからです。

 なお、本編でヱビス、ダイコクへ、それぞれ「さん」づけ、あるいは「天」をつけて表記しているのは、菅公の場合と同じです。

 さて、以上のことからわかるように、白と赤は防腐作用、あるいはタタリを防ぐものとして日本では対で用いられてきました。
特に白は結界を表し、赤には積極的な抑止作用を期待したといえそうです。そして、紅白で陽と陰の陰陽和合を構成し、その力が遺憾なく発揮できるよう万全を期したものと考えます。
 これが贈答品の包装に紅白紙をセットで用いることの意味でしょう。

 なお、赤の染料もシロい紙と同様に、以前は高価なものでした。ですから、かつて紅白の紙で包まれたものは、その中身が相当に高級な品であることを保証するものでもあった、と考えることができます。

 ところで、こうした紅白の紙や水引を重んじてきた影響からか、日本では包装文化が極めて発達しています。たとえば書籍が、海外では見られないカバーや帯、また箱などで装飾されるといった日本の書籍文化の特徴はこれに根差すものです。

 そこで、つぎは箱について考えてみましょう。
2011年06月03日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その10)

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風神・雷神
 江戸時代初期に活躍したとされる俵屋宗達(タワラヤソウタツ)の代表作「風神雷神図屏風(建仁寺蔵)」は、一説に京都の豪商が京都妙光寺再興の際に製作依頼したものといわれます。
これには風神と雷神が鬼の姿で、それぞれ二曲(二枚折り)の屏風へ、風神は向かって右、雷神を向かって左へ立てるように描かれているものです。

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[俵屋宗達 風神雷神図]

 風神および雷神とされる神は、そもそも千手観音の眷属(ケンゾク=従者)です。そして、これら両柱は、他の眷属、二十八部衆とともに古くから尊崇された存在です。
また、風神・雷神はギリシャ神話や中国の神話にも登場します。

 ところで、この2柱が一対で表されるのは俵屋宗達の屏風絵が創始ではありませんが、それまでに決して多くの作例があったわけではありません。
また、なぜ宗達はこの2柱を尊崇されたにもかかわらず、日本オリジナルな鬼の姿で絵画化したのでしょうか。

 雷神は北野天神縁起絵巻の図様から着想を得たといいますが、ここで描かれる雷神は赤鬼です。
これに対し、本図では白鬼で描かれます。一方、風神は緑鬼で描かれています。

 このように日本で最も一般的な青鬼と赤鬼のコンビではなく、なぜ緑鬼と白鬼で表現したのでしょう。
 また、持物の造形性の類似から、鎌倉時代に造られた三十三間堂の風神・雷神像の影響もあるとされますが、こちらは人型ですし、像の向きも異なります。

 こうした疑問に、たとえば風神・雷神は自然現象を擬人化したもので、日本人に馴染み深いことによって信仰の対象になった、と説明されます。
また、風神・雷神をともに鬼の姿で描いたのは宗達の独創であり、緑の鬼と白の鬼の配色と対比は宗達の並外れて優れた色彩感覚のなせる技とされます。

 しかし、風や雷に馴染み深いのは日本人だけではありません。そして、鬼の姿に対する解答も、風や雷が人に災いする存在であったからなのでしょうか。
宗達があえて風神と雷神を緑鬼と白鬼の姿で描いたのは、これらの姿に何かを象徴させたかったはずです。

 鬼とは天つ神に対して国つ神をさすことがあります。また、荒ぶる神や人にタタリをなす存在を意味することがあります。
ですから、風神・雷神ともに鬼の姿で描かれることで、いずれも国つ神、あるいは怨霊神と考えることができます。

 そこで荒ぶる国つ神で、風神と聞いて思い出すのが暴風神、素盞鳴尊(スサノヲノミコト)です(以下、スサノヲ)。
『古事記』によると、スサノヲはイザナギがミソギの際に鼻から生まれたという謂れを持ち、そもそも天つ神系とされるのですが、オオクニヌシがスサノヲの娘をめとることによって国つ神系の祖ともなった性格の定まらない神です。

 そして、スサノヲは後に冥界の王とされたことから、地獄の獄卒(地獄で死者を責める役人)である牛頭天王(ゴズテンノウ)と習合します。
この同一視には、いずれも災疫をもたらす神であるという理由もあります。

 牛頭天王は、もともとがインドにある祇園精舎の守護神であり、京都の八坂神社(祇園社)の祭神です。
ですから、こうしたスサノヲ・牛頭天王に対する信仰を特に祇園信仰といい、祇園信仰も御霊信仰が発展したものといわれます。そして、この八坂神社の社殿もまた朱塗りです。

 なお、仏教説話では鬼が地獄で閻魔の配下として、獄卒の役を務めているとされます。これをもって、鬼はまた地獄の獄卒をさすこともあります。

 一方、タタリをなした怨霊神で、日本史上最も著名な雷神が先述の菅公であり、菅公を祀る京都の天神社は北野天満宮です。
菅公に対する信仰は室町時代に全盛となり、ちなみに菅公の神使(神の使い)は牛とされます。

 さて、これら2柱を祀る両社の位置関係は、京都御所を起点にとれば八坂神社が東南(陽)、北野天満宮が西北(陰)となり、しかも両社は御所からほぼ等距離にあります。
また、両社の社殿は、いずれも南向きで建造されています。

 宗達による屏風絵の風神は1本角(奇数=陽)の緑鬼(緑=陽)の姿で描かれ、向かって右、すなわち東(陽)へ配されます。
また、2本角(偶数=陰)で白鬼(白=陰)の雷神は向かって左の西方(陰)に置かれます。そして、この1本角、2本角による造形は、狛犬に見られる一変型に共通します。
 なお、後述しますが、ここでの緑の鬼は青鬼と同義です。

 したがって、俵屋宗達の創造した風神・雷神は、それぞれスサノヲと菅公を象徴すると考えることができます。しかも牛との相関や、両者とも天神であって天神でないところも共通します。
 天神であって天神でないところは風神が青でなく、あえて緑で描かれているところにも表れていますが、この理由についても後述しましょう。

 さらに陰陽論と符合する点でいうと、渡来神である牛頭天王(=スサノヲ)を向かって右、和人である菅公を左に配したところです。

 つまり、当時は舶来したものが国産のものより格が上だとされていたことから、尚左の思想により渡来神を向かって右へ配したと考えることができます。
これは恵比寿さん・大黒さんの並置にも同じ事情が見られます。

 なお、風神雷神と呼び習わされていますが、陰陽論にしたがい、本来は雷神風神と呼ぶべきものであるかもしれません。

 さて、強大な怨霊は御霊として祀れば強力な善神になると先述しました。ですから、この屏風絵は御霊神の巨大な御利益を期して製作依頼されたものかもしれません。

 あるいは、本図が描かれた江戸時代初期、京の都は多くの天災に連続して見舞われたことがありました。これの鎮静を目的として描かれたものかもしれません。

 荒ぶる神は古くから自然の脅威と、その恩恵をたとえたもの、とされるのも普通です。風神・雷神として描かれたのはこれを象徴するものとして妥当なものがあります。
たとえば暴風雨は作物に被害を与える反面、干魃時には慈雨として、雷は稲妻ともいうように雷の多い年は稲が豊作であるという二面性があります。

 そして、本図に落款(ラッカン=サイン)がないのも本図が礼拝の対象であったからでしょう。
日本で絵画に落款を為したのは室町時代の雪舟が嚆矢とされますが、そもそも礼拝の対象となる書画には雪舟以降も落款が記されません。それは描いた当人が礼拝の対象とならないようにするためです。

 また、風神が阿形、雷神は吽形で描かれていることから、守護神像であることは疑いえません。
つまり、両図は神社に並置されるコマイヌなどと同様、何らかの主体の両脇に置かれていたものであり、離して立てられていたものと考えます。
ですから、両柱の視線がとやかく云々されますが、これには主体を考慮した議論が必要です。

 この主体が何であるかは疑問の残る点ですが、風の向きがヒントになるかもしれません。
それは右方に配される風神の存在にもかかわらず、雷神の纏う襷が左から右へたなびいている点です。
すなわち、風の向きは左から、つまり西からのものであるところです。

 この西からの風は西からの脅威とも考えることができ、これは当時の布教目的で来日した西洋人による国難を想定したものかもしれません。
 もしそうであるなら、この主体はキリスト教の布教におののく宗教に関わるもの、といえるでしょう。

 ちなみに、屏風絵では絵巻物と同様、その時間的推移が右から左へと表現されますが、南蛮屏風(ナンバンビョウブ)では、その逆で描かれています。
 南蛮屏風とは桃山時代から江戸初期の来航ポルトガル人を描いた屏風をいいます。これは現在まで80点余りが知られていますが、そのすべての時間的経過が左から右へと向かっています。

 つまり、左(西)からやってくるものは西洋人という認識が、当時にはあったものと考えます。
そして、蛮もまた、野蛮や蛮族というように、古く中国で異民族を表す蔑称とされてきたものです。

 ところで、残念なことに表具はその性格上、何度も改装されることから想像するしかないのですが、おそらく当初の風神雷神図屏風には赤の椽(フチ)か、あるいは赤地の縁(ヘリ)が周りに巡らされていたのではと考えます。
2011年06月02日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その9)

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恵比寿天と大黒天の表具
 菅公と同じような表具を行うものに恵比寿天と大黒天がありました。

 ただ、これは恵比寿天、大黒天が単体で、しかも厳格な風に、あるいは忿怒形で表現された場合に限りますが、いずれにせよ福神である恵比寿さんと大黒さんになぜ怨霊神へ用いる表具を、と不思議にお思いになる方があるやもしれません。

 恵比寿天は夷神(エビスガミ)と蛭子神(ヒルコノカミ)が習合したものといわれます。蛭子神とは日本神話に語られるイザナギ、イザナミが初めて生んだ神であり、骨のない奇形児であったため葦(アシ)の葉の舟に乗せられ流されたといいます。
そして、この蛭子は今日、「えびす」とも読みます。また、「えびす」は戎や胡とも書きます。

 これらは用字から捉えると、いずれも蔑称です。夷、戎、胡は中国漢民族が差別の対象とした異民族を表す語であり、「えびす」という読みも、かつて大和朝廷の仇敵であった蝦夷(エミシ)の訛ったものといわれます。

 ちなみに、かつて大和朝廷が執拗に蝦夷を排撃したのも、蝦夷と呼ばれた人たちが、大和朝廷にとって鬼門の方角に住まいしていたことも関係しているでしょう。

 そして、蛭子というのも、不吉なものを連想させる命名です。ヒルは多く動物の生き血を吸う生物です。つまり、赤不浄を伴う不浄な生き物です。
骨がないのであるなら、ナメクジやナマコでもよかったのではないでしょうか。また、言霊信仰からしても、わざわざアシの葉に乗せて流したというのも象徴的です。

 このアシは、スルメをアタリメと呼ぶ人があるように、「悪し」では具合が良くないというので、ヨシと読み替えられることも多くあります。

 「恵比寿」の歴史的仮名遣いは「えびす」とされ、「恵(ゑ)」の字は仮名遣いを無視した当て字といわれますが、「恵」を当て、「恵比寿」と嘉語で吉祥的に表記したのは、おそらく「ヱビス」を七福神信仰が盛んとなる室町時代以降の、福神に昇格させてからのことでしょう。
恵比寿天は今日、多く商家の福の神として祀られます。

 さらに「恵比寿」の「寿」は「いのちなが(し)」と訓ずるように長寿を意味します。そして、「ことほ(ぐ)」とも訓みます。
「ことほぐ」は「言祝ぐ」とも書くように、喜びごとや祝いごとの際に詞(コトバ)で祝福するといった意味であり、こうした祝詞もまた言霊思想の延長にあるものです。
つまり、縁起の良い言葉を発すれば、良いことが実現するということです。

 ちなみに、「寿」は、たとえば結納飾りのスルメを「寿留女」、また末広(扇)を「寿恵広」と書き換えたりするときにも用いられます。

 また、「恵比寿」は「恵比須」とも書かれます。この「須」は本来「ヒゲ」の意であり、恵比寿さんがヒゲをたくわえた姿で描かれるのもこうした理由です。
ヒゲが一般に長寿を寓意するように、「須」もまた嘉語です。そして、このとき「比」は「美」とも記されることがあります。

 このようにヱビスの表記はおめでたい語で彩られています。それは逆に、エビスがもともと縁起の良くない存在であったからでしょう。

 一方、大黒天は、そもそもインドで仏教を守護する戦闘神とされていましたが、中国では厨房の神様となり寺で祀られるようになります。

こうした理由で日本でも寺院の庫裏(厨房)で忿怒形の神王像として祀られることが多く、ちなみにこれを司るというので僧侶のご内儀のことを大黒様と呼ぶことがあります(おそらく忿怒形であるからという理由ではないでしょう)。

 そして、大黒と大国といった音の共通性から、やがて大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合し、当初は破壊と豊穣の神として信仰されたといいます(以下、オオクニヌシ)。

 ところで、日本神話で国譲りに同意し、美保関の海中に潜ってしまったオオクニヌシの息子、事代主命(コトシロヌシノミコト)も室町時代末から江戸時代の初め頃、ヱビス神として信仰されるようになります(以下、コトシロヌシ)。

 こうして親子関係にある、コトシロヌシを祀る美保神社とオオクニヌシを祀る出雲大社は「出雲のヱビス・ダイコク」と並び称されるようになりました。

 さて、恵比寿天、大黒天に菅公と同じような御霊神用の表具を行うのは、いずれも国つ神と習合したからという理由があるのかもしれません。
また、恵比寿天・大黒天に共通するのは二面性を持つところです。

 国つ神とは天孫(天つ神系)降臨以前から日本の国土、あるいはその一部を治めていたとされる土着の神のことです。
すなわち、この国つ神は蝦夷や出雲族といった被征服民族の代表であることから一種の怨霊神です。

 もちろん今日、恵比寿さんと大黒さんは福神としてコンビで表現されることが多いことから、掛軸では官公の表具で用いるような仕様を採用しません。
しかも怨霊神を畏れる意識が現代において希薄になったのか、こうした特殊な表具スタイル自体も廃れてしまいました。

 これに対し、天つ神系には、御霊神に用いるような赤地の織物で作品を取り巻くスタイルでの軸装は行いません。

 また、そもそも天つ神系の神像は絵画化されることがほとんどありません。それは神道が偶像崇拝を禁じていると考えられているからであり、神社においても礼拝の対象となる、仏教でいうところのご本尊は建物内にはありません。
こうした点も、天つ神と国つ神の大きく異なる点です。

 さらに、伊勢神宮や八坂神社、上賀茂神社などでは式年遷宮祭という定期的な新殿の造営を行います。

式年遷宮は神道の再生思想を表しているとされますが、これも神社といった建造物自体が礼拝の対象とならないよう配慮して生まれた制度であるという説もあります。
あるいは、神社という建造物をケガレの吸着装置とみなしていたからという理由もあるかもしれません。

 ちなみに、神道が偶像崇拝を禁止していたことから、日本人は基本的に多神教である仏教を比較的スムースに受け容れた、すなわち仏像を仮借して神影の代わりに拝んだとする説もあります。
仏画を赤地の織物で取り巻くように表具することがあるのも、これを裏付けます。

 ところで、天つ神系の神は天神とも呼ばれますが、天神信仰は菅公を天満大自在天神(ソラミツダイジザイテンジン)として崇める御霊信仰をさします。
 ただ、菅公はあくまで天満宮に祀られた怨霊神であり、本来が天つ神ではありません。

 なお、この天満宮の社殿が、通常は朱塗りであるといった事実もまた、アカの都合のよくない変化を防ぐ機能を信じてきた証と考えることができます。

 いずれにせよ、菅公が後に天神という神格の高いものとして祀られたのは、そのパワーがあまりに強大なものとされてきたからでしょう。
2011年06月01日(Wed)
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