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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その8)

>>未分類
Ⅱ-③ 赤と白

 これまで赤と白をそれぞれに見てきましたが、それでは水引のように赤と白がセットになったときには、どのような機能を持つのでしょう。

菅原道真公の表具
 菅原道真公などの御霊神を描いた作品の軸装(掛軸の体裁にすること)では、伝統的に赤地の織物を作品周りへ取り囲むように計画することがあります。
そして、この場合、さらにその周りへはシロい紙など白地のものを配するのが表具師の古い口伝です。

 菅公(菅原道真公)はご存知のように今日では学問の神様ですが、天神社で祀られる以前はタタリを為す怨霊として大いに畏れられた存在です。
怨霊とは受けた仕打ちに怨みをもって亡くなった位の高い人間が、死後に変化(ヘンゲ)したものとされます。

 さて、中流公家出身の菅公は、その才覚によって右大臣にまで上りつめるのですが、藤原時平によって讒訴され、左遷された九州の太宰府で失意の内に亡くなります。
その後、京に異変が相次ぎ、これが菅公のタタリとして畏れられたといいます。

 したがって、いまだ菅公の表具を行う際に赤地の織物で取り囲むようにするのは、やはり菅公に対する畏れゆえのことでしょう。
本編でも、呼び捨てにせず「公」を付けて記しているのは同じ理由です。

 ところで、怨霊はタタリを畏れてのことか、御霊(ごりょう)と言い換えられます。日本各地にある御霊神社は菅公のような憤死を遂げた人の御霊(みたま)を鎮めるために勧請されたものです。

 そして、「悪に強ければ善にも強し」といったところでしょうか。強大な怨霊は御霊として祀れば強力な善神になると信じられてきました。こうした信仰を御霊信仰といいます。

 また、怨霊を御霊としたのは言霊ゆえのことでしょう。言霊とは日本で古来、「言の葉(言葉)」に宿っているとされる不思議な力のことです。

この言霊には発した言葉どおりの結果を現す力があると信じられてきました。たとえば結婚式で「(結婚を)重ねる」、「(縁が)切れる」といった言辞が忌まれるのは、こうした言霊思想によるものです。
つまり、言葉にもまた神が存在するというアニミズムによるものです。

 ですから、このような怨霊といった意味の良くない語を御霊という高次の語に言い換えるのは日本ではよくあることです。

 たとえばワタ(内蔵)を食すると、たちまちのうちに食中毒を起こすフグも「福」や「富久」といった吉祥意を持つ字が当てられます。
そして、こうしためでたい意を持つ言い換えられた語を嘉語といいます。

 逆に、不吉な意味を連想させる言葉を忌み言葉(忌詞)といいます。

梅干と天神様
 一つ興味深い話があります。それは「梅は食うとも核食うな、中に天神寝てござる」という諺の成り立ちです。

 これは生梅の核(種子)には毒物(青酸配糖体)があり、食することを戒める諺です。
菅公はご存知のように、京の都を去るとき「東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠んだように、梅をこよなく愛した人です。

 ちなみに、東風はコチと訓みますが、五行説による皇太子の称、「東宮」を「春宮」とも書くように、東風は春風を意味します。

 ですから、この諺は梅の実と梅を好んだ菅公(天神様)の縁を掛けたものですが、それだけでなく菅公の御霊(怨霊)によるタタリをベースにも諺化されたものでしょう。

 また、もしかすると古人は、梅干を紫蘇などで赤く染めることによって、すなわち赤がその害毒をなす、かつて天神様とも呼ばれた核を包むことによって、タタリを防ぐ役目(防毒)を果たすと考えたのかもしれません。
というのも、梅干を赤く染める妥当な理由が見当たらないからです。

 なお、梅干は日本独自の食品であり、この梅干をつくるには、まず大量のシロい塩を使って塩漬にした後、日光で晒すことが普通です。
そして、塩は梅干を赤く染めたとき、色褪せを防ぐ働きもします。つまり、これにも赤と白が強く関わります。

 ところで、梅の実はクエン酸を含むことから強い殺菌力があり、食中毒を防ぐ効果があります。
 逆に、梅の実は完熟すれば黄色になるのですが、「梅雨時分の梅の実は食べてはいけない」と昔からいわれるように、未熟な青梅を食すると中毒をおこすことがあります。

 したがって、梅干を赤で染めたのは「熟」を強調した、つまり「青梅ではないよ」というのが理由なのかもしれませんが、いずれにしても梅には荒ぶる神と同様に、御利益(防毒)とタタリ(毒物被害)といった二面性が見られます。
2011年05月31日(Tue)
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『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その7)

>>未分類
タタリ
 日本の神は祀る人の願いを叶えると同時に、タタリといった人びとを畏怖させる二面性を有しているといわれます。
これは繁栄と災厄をもたらす自然を神とみなしてきたことの延長にある考え方だとされます。

そして、こうした二面性をそれぞれ和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)と呼ぶことがあり、特に後者のタタリを為す神を「荒ぶる神」とも呼んで畏れてきました。

 なお、日本民俗学のパイオニア、柳田国男はタタリという言葉がそもそも「神の示現」という意味に過ぎないとしています。
つまり、タタリ自体が二面性を持ち、これへの対応如何でプラスにもマイナスにも働くものとしていますが、タタリは今日、神仏や怨霊によって被る災厄をさすことが普通です。

 朱塗りが施された鳥居があるのも、赤のこれまで述べてきたような効用を期し、荒ぶる神への対策としたのかもしれません。
先述した神社の守護神、獅子・狛犬が神社内部に向けられて設置されている場合もあります。

中国でのアカ
 日本ではアカが以上ような性格を持つと考えられるのですが、中国では五行説でいう「陽中の陽」である「火」の相当色であるように、アカはめでたいものとされてきたようです。
こうしたものに、たとえば朱竹図があります。

 朱竹図は朱墨でもって竹を描いたもので、北宋代の詩人、蘇東坡(ソトウバ)に始まるといわれます。
朱竹図は蘇東坡があるとき墨を切らし、ありあわせの朱で描いた竹図を人に与えたところ、子供のなかった夫婦に男子が授かり事業が成功して大富豪になったという道教的な故事から、幸運を招くもの、暗示するものとして古くから喜ばれてきたものです。

 また、中国の二大儀礼とされる「紅白喜事」の「紅喜事」は婚礼を意味しています。そして、「白喜事」は特に天寿を全うされた方の葬儀をさし、このとき盛大な葬礼が執り行われ、葬儀の案内状や棺も赤で彩る場合があるそうです。
ですから、中国では赤が祝福を示すものだと考えていいでしょう。

 日本でも、高齢者が亡くなられた場合に長寿を祝賀する意味で、長寿箸などを配る風習があり、地方によっては葬儀の席で赤飯を振る舞うところもあります。

 なお、アカを表すのに現代中国語では「赤」よりも「紅」が多く用いられるそうです。そして、中国語の「赤」は今日、色彩を形容する語としては比較的限られた使い方しか持たないといいます。

 さて、日本では赤で書いた手紙が絶交を表すとされてきたように、アカをあまり良い意味で使うことは少ないようです。
能楽や歌舞伎でいう赤頭(アカガシラ)も妖怪や悪鬼を意味することがあります。

 また、六曜のうち赤口(シャック、シャッコウ)が陰陽道で万事に不吉な日とされるのも、赤に縁起の良くない意を感じてきたからでしょう。
 ちなみに、六曜とは暦注の一つで、これに吉凶やその日の運勢など、さまざまな解釈が与えられてきたものですが、大安や仏滅を気にするといった今日の日本においても未だ影響力が強い迷信です。

 以上のように、かつて日本でのアカは中国ほどのプラスイメージを持っていたとは考えにくいものがあります。

赤飯
 赤飯は今日、慶事で頂く食物とされますが、以前は意外なことに凶事の席で食されてきました。
凶事に赤飯を食べるこの風習は現在も各地で見られます。文化庁の全国調査よると、葬式で赤飯を用いるところは東北地方から南西諸島に点在しています。
これは昔から広範囲にわたって凶事に赤飯が使われていたことを示しています。

 江戸時代の随筆家、喜多村筠庭(キタムラキンテイ)による『萩原随筆』には、「京都にては吉事に白強飯を用ひ凶事に赤飯を用ふること民間の習慣なり」とありますが、慶事に赤飯をつくる慣わしが民間に定着したのは江戸時代後期以降といわれます。

 ところで、今日の日本では絶滅宣言がなされていますが、かつて天然痘は定期的な大流行を起こすことで知られる感染症でした。死亡率が高く、また治癒しても痘痕(アバタ=瘢痕)を残すことで恐れられてきた病気です。
以前はこの天然痘のことを疱瘡(ホウソウ)と呼んでいました。

 江戸時代の人は、「疱瘡神」に取り憑かれることにとって疱瘡を病むと信じていました。
この疱瘡神は、たとえば朱で描いた鍾馗図(ショウキズ)を「疱瘡神除け」の御守りとした地域もあるように、赤色を苦手とする、という伝承があります。

 そこで、疱瘡に罹患したものは赤飯を食べ、疱瘡神を体から追い出そうとしました。そして、このとき幸いにして平癒した者は、厄払いに赤飯をもう一度食したといいます。

 やがて江戸末期に種痘で疱瘡を予防することが可能になると、平癒後に赤飯を食べるという慣習だけが残ったそうです。
つまり、赤飯が快気祝いに用いられるようになり、これが慶事に赤飯を食するという習慣に繋がったといいます。

 以上のように、赤飯が凶事に用いられたということは、やはり赤をケガレ抑え、あるいは厄払いの手段とみなしていたからといえるでしょう。
そして、予防のために赤飯を食べたのではなく、あくまで治療のために赤飯を利用したということから、赤は外敵に対してではなく、内敵に抗する手段であったことがわかります。

 ちなみに、疱瘡神を祀るといった習俗もありました。これは、次節に述べる御霊信仰に一脈通じるものがあります。
2011年05月30日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その6)

>>未分類

 施朱には暗く濃い赤を発色する弁柄(ベンガラ=酸化第二鉄)も使われたようですが、主に用いられたのがアカるい赤色の硫化水銀という物質です。
この硫化水銀は不老不死のシンボルとされてきました。それは硫化水銀を摂取すれば、死後に死体が腐りにくいということが古代より知られたからです。

 中国の方士(ホウシ)は硫化水銀から、服用すると仙人になれるという霊薬、「仙丹」をつくりだしました。この方士とは道教思想がベースとなった方術を操る者をいいます。

 こうした方士の勧めにより唐代中国の皇帝には身体によくないと知りつつ、不老不死を願って仙丹を飲用し、中毒死した者が幾人もいたといいます。
また、不老不死を切望した秦の始皇帝も硫化水銀によって死期を早めたという説があります。

 すなわち、かつては真実と考えられていたこうした俗信が日本へ伝わり、いつしか腐敗対策、つまり施朱という習俗に繋がったのかもしれません。

 ところで、以前は硫化水銀が辰砂からつくられました。中国ではこの辰砂の産出量が少なく、極めて貴重なものとされました。

 絵画や書作品に押印するのは作者の保証を意味するものですが、これに朱を用いるのはかつて朱が高価であったからです。
今日の日本でも重要な書類に捺印する習慣が残っているのは、これに由縁するのでしょう。

 辰砂は朱砂とも丹砂とも呼ばれますが、日本ではこれを古来「丹(ニ)」と呼んできました。
『魏志倭人伝』にも「其山丹有」とわざわざ記されたように、日本が火山国であるからか、日本では丹の産出量が多く、こうした丹がとれるところを「丹生(ニュウ、ニウ)」と呼んできました。
また、同書には卑弥呼が魏に献上したとも記載があります。

 そして、全国各地、特に中央構造線上に丹生のついた地名や神社があるのも、日本が丹の国であったことを裏付けています。

 「日本」の「日」という字は本来、「ニチ(呉音)」、あるいは「ジツ(漢音)」と発音します。
つまり、「日」には「に」という読み方は存在しないのですが、もしかすると日本を「にほん」あるいは「にっぽん」と読むのは、「丹本」が謂れなのかもしれません。
すると、「日本」は「ひのもと(お日様の許)」と和訓されるように、「丹本」は「にのもと(丹の生ずるところ)」と考えることができるというものです。

 なお、日の丸の「日」が太陽を表しているのは日本人の常識ですが、Wikipediaによると、太陽が赤で表現される例は世界的にも歴史的にも珍しいそうで、日本以外では太陽を黄色か金色で着彩することが普通です。

アカの役割
 以上のことから施朱は死者を護るというより、逆に腐敗を防止し死者のまがまがしい魄(ハク)を封じ込める意味があるのではと考えます。
 つまり、日本人は魄を大いに畏れてきたといえます。

 これは、かつて土葬用の棺桶として用いられた桶棺が、白布で十文字にくくられて埋められたことからもわかります。
さらに火葬場への往路と帰路には同じ道を通らないというタブーも、ご遺体に取り憑いた死霊が付いてこないようにするためといわれます。

 また、通夜などでご遺体の上に小刀を置く「守り刀」や、仏式の葬儀で経文などを書いた衣、経帷子(キョウカタビラ)を死者に着せるといった習俗とも繋がるように思います。
すなわち、この小刀や経帷子は死者のためではなく、逆に死者の忌まわしい魄より生ある自分達の身を護るためのものであると考えるからです。

 そして、複葬(白骨化してからの埋葬の仕直し)といった習俗も、腐乱してゆく死体への恐れに起因する習俗なのかもしれません。

 したがって、施朱の意味から推し、畏怖性の封入こそが赤の役割であると考えます。
つまり、魔除けとされたのは外敵に対する備えではなく、内なるものの都合の良くない変化を抑えることに赤の意義があると考えられてきたのでしょう。

 また、全ての神社について調べたわけではありませんが、朱塗りの鳥居をもつ、あるいは朱塗りの建造物を有する神社の祭神が御霊神(ゴリョウジン)であることも、これを裏付けるものかもしれません。
御霊とは、後に詳述しますが、怨霊を言い換えた言葉です。

彼岸花と口紅のアカ
 彼岸花という花があります。その名は秋の彼岸ごろから開花することに由来し、ここでの彼岸とは春分・秋分の日をそれぞれ中日とする7日間に行われる法会をさします。
彼岸という寺院への参詣や墓参などの仏事を謂われとするからか、この花は仏語で天界の花を意味する曼珠沙華(マンジュシャゲ)とも呼ばれます。

 真っ赤な花を咲かせる彼岸花は墓地に多く見られます。これにより、彼岸花は不吉な花とも忌まれてきたことからの異名が多く、死人花(シビトバナ)、地獄花、幽霊花などとも称されます。
 なお、これらの命名からわかるように、死は仏教と深く結びついており、それは神道が死をケガレとしたことにより葬儀は古くから仏教が執り仕切ってきたからといわれます。

 ただ、彼岸花は、その球根にアルカロイドを多量に含む有毒な植物です。ですから、彼岸花が墓地で多く見られるのは、墓地に好んで咲くというのではなく、人為的に植えられたからです。
つまり、彼岸花のアルカロイドをもって、鼠など小動物や虫などの墓荒らしを防ぐ目的があったからです。この習慣も施朱に一脈通じるものがあるでしょう。

 なお、彼岸花の球根は澱粉に富み、その毒は長時間の水晒しで抜くことが可能であるので、救飢植物として食用されたこともありました。
このように赤い花をつける彼岸花は忌まれていたにもかかわらず、かつては有用な植物でもあったのです。

 ところで、口紅は化粧目的以外に魔除けの呪具ともされてきたものですが、それではなぜ男性は口紅をしないのでしょう。
平安時代には男性も口紅をしたことがあったようですが、これも一部の公家や高家を除き、鎌倉以降には廃れた習俗となったそうです。

 口紅は女性が初潮を見たことを示す一人前の証としたのかもしれません。つまり、口紅は「子も産める成熟した女ですよ」といったシグナルであったのかもしれません。
そして、これが赤を女性の性色としてきたことの理由の一つでもあるのでしょう。

 しかし、赤不浄は経血を意味することがあると先述しました。
ですから、口紅をさすことも、こと日本においては、やはり赤不浄を伴う成人女性をかつてケガレたものと見なし、それを封じようとしたところによるのかもしれません。

 それは、たとえば日本でショーツが一般化するまで用いられた、腰巻(コシマキ)という成人女性の下着の色に、赤が多く用いられたことにも通じるのかもしれません。
また、巫女装束が白衣に朱袴(緋袴)とするのも、ケガレを表出させないという同じ理由でしょう。
2011年05月29日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その5)

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Ⅱ-② 赤の意味

 ここでの赤は今日いうところのレッドではありません。
かつて日本では青に対する色として、伝統色名でいうところの赤色、朱色、丹色(ニイロ)などといった赤系の色をすべてアカと呼んできました。

 そこで最初に赤と朱、および丹について整理しておきます。

赤色とはどんな色?
 『大字典』によると、赤はアカキ色の中位のものをさし、朱もまた同じとあります。

ただ、朱は後世になり朱砂(スサ=辰砂)の中でも「あかいもの」を朱と呼ぶようになったということです。
今でこそ朱はバーミリオンをさしますが、朱という色名がこの色に当てられたのは意外に新しく昭和初期のことです。

 なお、辰砂(シンシャ)とは中国辰州(現在の湖南省近辺)産の砂のことで、赤系顔料の原料として用いられてきたものです。

 丹はそもそも丹砂(タンシャ)の色とされます。丹砂は辰砂と同じものですが、なかでも朱に白色を帯びたものが丹とされます。
ただ、今日での丹色は朱色より茶系を帯びたものをさすことが多いようです。

 ところで、以上の赤色は顔料系のものであり、他に染料系の紅(べに、くれない)があります。そして、染色における赤は紅花(ベニバナ)で染めたものが本義とされます。

 ちなみに、顔料や染料は彩色に必要な着色材をいいます。顔料は主に鉱物を元につくる粒子の粗いもので、染料は植物を主原料とする粒子のごく細かいものをさします。

 明治時代になり西欧から安価な合成染料がわが国へもたらされるまで、紅花は対価として金と同重量、あるいはそれ以上で取引されたという記録があります。

 たとえばこの紅花染の一つ、一斤染(イッコンゾメ)も紅花が高価であるがゆえに生まれた染色法です。江戸時代、奢侈禁止令により深紅が禁じられていた一般庶民は、1匹(2反)の絹布を染めるのに1斤(600g)の紅花しか使用が許されなかったといいます。ですから、一斤染は上代からのものですが、江戸時代でのピンク色は庶民の色とされてきました。

 なお、紅花による染色は紅色であるにもかかわらず、古くは呉藍(クレナイ)や唐藍(カラアイ)といいました。これは藍という語がかつて染料の総称的な意味で用いられ、紅花染料がそもそも中国からの輸入品であったからです。

 さて、日本で赤は「あか(明)」と同語源とされ、以上のような赤系の明るい色をすべてアカと呼んできました。
ですから、本章でいうところの赤はアカるい赤系色の総称とします。

五色と正色
 五行で説く五色(ゴシキ)を儒教社会では正色(セイショク)と定めました。正色は聖人君子が使用する色としてきましたが、厳密にいえば五行説での五色と正色とは異なります。
 いずれも青・赤・黄・白・黒の配当こそ変わりませんが、五行説の五色は多分にファジーで、たとえば朱夏というように赤系の色であればおおむね「火(カ)」の配当色としたところです。

 ちなみに、「赤」という字は、もともとこの五行説から生まれた漢字であり、「大」と「火」の合字とされます。

 これに対し、正色では純色(彩度のいちばん高い鮮やかな色)を基準としています。ですから、儒教で赤の正色とされるのはレッドの赤のみです。

 日本ではこうした赤色に対してもシロ色と同じように抗腐敗作用を期待してきたのでは、と考えています。

 民俗学や考古学を専攻される多くの方は、赤には呪術的な理由から魔を除する機能を持っているとしています。
この赤が魔除けとされるのは外敵、すなわち多くは野獣を追いやる炎からの連想といわれます。

施朱
 古墳などでは朱が被葬者の周りに撒かれていることが多くあります。
これは「施朱(セシュ)」といい、すでに『古事記』にその記述が見られ、ちなみに江戸時代に至っても下町の墓地にまで施されるほど続いた一般的な慣わしとなっていたものです。

 なお、飛鳥時代の古墳に用いられた夾紵棺(キョウチョカン)と呼ばれる貴人用の棺は、外側は黒漆塗りですが、内側は朱塗りです。これもまた施朱の一変形といえるかもしれません。

 ところで、土葬がほとんど見られなくなった今日ですが、この施朱といった習俗も魔除けといった理由でなされたものだったのでしょうか。

 話は変わりますが、日本人は死体を異常に恐れます。死体は次第に腐乱し、すなわちケガレたものになります。
日本人は、先述のように死体のこうした腐ってゆくところへ怖れを抱いたに違いありません。

 あるいは、かつて防疫が未熟な時代、特に伝染病で亡くなった方からの感染ということも実際あったでしょう。
そして、そもそもケガレとは伝染すると考えられてきたものです。

ですから、清め塩の風習には現実的な必要があったと考えます。今日の日本での火葬率が99%であるのは、これが理由の一つなのでしょう。

 ところで、死体を恐れる理由に、陰陽論を基にする儒教の死生観を援用して説明されるものがあります。

 古来、日本の考えでは、死は肉体の消滅であってタマシイの消滅ではありませんでした。こうしたタマシイを不滅とする考え方は東アジアに共通するものといわれます。
 そこへ、タマシイに魂魄(コンパク)があり、人が死んだときにはこれが分化し「魂(陽の精気)」は天に上り、「魄(陰の精気)」は地に留まるという思想が古くに中国から至ります。
日本はこの考え方に強い影響を受けました。

 ただ、ここから先が儒教と異なる点ですが、死体が腐敗によって生ずる「魄(陰の精気=死霊)」は人に取り憑き厄をもたらすと考えてきました。
これが、日本人の死体を恐れるようになった理由の一つです。

位牌
 これもまた儒教とやや違うところが、逆に「魂(陽の精気)」は位牌(イハイ)を依代(ヨリシロ=神霊が寄りつくもの)として、子孫の守り神になると日本人は考えてきました。
これは、たとえば仏壇から位牌を移動させるとき、宗派によっては僧侶がオショウネを抜く作業を行うことからも窺えます。

 今日ではさすがに少なくなりましたが、以前は火事で位牌を取りに戻り焼死する人が多かったことも、位牌をいかに大切なものと考えていたかがわかります。

 この「位牌」という語こそ中国渡りのものですが、位牌を重んずる考え方は儒教を信奉する先祖祭祀の本家本元である中国や韓国にもなく、本来の仏教にすらありません。
ですから、これは日本独自の信仰のあり方といわれています。
2011年05月28日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その4)

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シロい塩
 シロ色をしたものには塩もあります。岩塩がほとんどない日本では天日を利用して製してきた塩もまた、今日化学的に製される純白の雪色ではなく、かつては素色であり、そしてケガレに抗する大きな力を持つとされてきたものです。

 この塩には、乾物づくりに利用してきたように、防腐作用があります。そして、殺菌作用があることから消臭効果も備えています。
 こうした理由で、塩が清め塩に用いられたのだと考えます。

清め塩
 ここでいう清め塩とは、通夜や葬儀の会葬後、玄関口で塩を撒く習俗をいいます。これは中世に始まり、流布したものといわれ、振り塩などともいいます。

 『古事記』にはイザナギが黄泉(冥土)から戻り、そのケガレをハラうために海の水で身を清めたと書かれています。
塩を自身に掛けるようにして撒くのは、この海水の代わりに用いるものともいわれます。

 こうした清め塩といった習俗は、かつてご遺体の腐敗防止のために使われた塩が発展的に解釈されたものでしょうが、ご遺体の防腐処理技術が進んだ今日では必要のないものかもしれません。

 その昔、貴い人をその墳墓ができあがるまで仮に納めておく風習を殯(モガリ)といいました。中世ではこれが慣習化して50日間の殯を行ったそうです。この殯のときには死臭が衣に染み付くといったこともあったでしょう。
通夜や葬儀の際にお香を焚くのも、この死臭をごまかすものであったという人もいます。

 こうした衣に染み付いた匂いは、水で洗うことをハライと呼んできたように、たとえば洗濯して天日で乾燥させることによってハラうことができます。

 「水に流す」といった慣用句も水にハライ機能を持たせてきたところに根差しているといわれます。
ご遺体を納棺の前に湯で洗い清める湯灌(ユカン)といった習俗も、こうしたハライ思想によるものでしょう。

 さて、以上の理由により、以前は葬儀に清め塩が必須のものであったのではないか。
つまり、昔はおそらく塩とご遺体がワンセットのものであり、これが発展して塩が象徴するシロい色もケガレをもハラう一種の呪具とみなすようになったと考えることができるでしょう。

 また、大相撲では取組みの前に、力士が土俵上で塩を撒きます。この塩も、清め塩と呼ばれます。
相撲はかつて、どちらの力士が勝つかによって豊穣や豊漁を占う神事でした。こうした側面から、神聖な場所を浄めるために、土俵へ清めの塩を撒く儀礼が生まれたといわれています。
これには、もちろん力士同士の激しいぶつかり合いによる流血を浄めるという理由もあったでしょう。

 しかも清めの塩は新たな取組みの前ごとにまかれます。
このように土俵はつねに神聖な状態を維持することが条件とされ、たとえば清めの塩以外にも土俵の清浄を期するものが大相撲の方屋根に吊り下げる四房(シブサ)といわれます。

 その理由は四房に限らず、房が大幣(オオヌサ)を連想させるものであったからか、あるいは埃を払うハタキからの発想か、房には古来、邪気をハラう機能があると信じられてきたからです。
 つまり、房のフサフサと揺れ動く動作が、ハライに通じると見たのでしょう。

たとえば座布団の四方に付けられる房も、中の詰め物(ワタ)のずれを予防する目的の他に、浄化された座を保つ結界としての意味があると考えられてきました。

盛り塩
 飲食店などの店先には塩を盛ってあることがあります。こうした、掃き清めた門口に塩を円錐形にして小さく盛ることを盛り塩、あるいは口塩(クチジオ)などと呼びます。
これは料理屋ばかりでなく寄席にも見られる、また古く花柳界では必ず盛り塩をしたといわれる習俗です。

 この盛り塩は、そもそも中国の故事に由来する縁起物とされてきた慣わしです。かつて西晋の初代皇帝、司馬炎は女色を好み、多くの後宮を囲ったそうです。
そして、広大な後宮を羊にひかせた車に乗って巡り、まるでルーレットのように、この羊車が気まぐれに止まったところの閨房にいる官女と同衾したといいます。盛り塩は、この皇帝の寵愛を一身に、と望んだ美妃が案じたものに端を発するとされます。

 この美女がめぐらした一計とは、羊車がとまるようにと、自分の閨房の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいたというものです。
つまり、羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからです。これが元となり盛り塩は客を招く、福を招くと考えられ、日本で定着したといわれています。

 今日、盛り塩の習慣を見受けることは少なくなりましたが、盛り塩を清め塩と呼ぶことがあるように、飲食店ではこれもやはり縁起物としてだけでなく、「食あたりが起きないように」といった祈りの思いを込めたものでもあったのでしょう。

 ところで、自宅において他人の言動から不愉快な思いに至ったとき、その客が退去した後に「塩を撒いとけ」と怒鳴る場合があります。
このとき撒く塩は自宅内ではなく、家の、それも入口から外へ向かって塩を撒き散らすようにします。

つまり、この場合、シロい塩には清めのためというよりも、不快なものを入り込ませないといった機能を持つと考えることができます。

 ですから、飲食店での盛り塩には不快な、あるいは不浄のものを入店させないまじないの手段でもあったのでしょう。
また、会葬後の清め塩にも、自宅内に入る前に行うことから、同じ機能を期待したものでもあったと考えます。

手塩
 昔、食膳に添え、適宜に用いた塩を手塩(テシオ)といいました。これも元は、食膳の不浄をハラうため小皿に塩を盛ったことからといわれます。

 ちなみに、このときの小さくて底の浅い皿を手塩皿といいます。
これを御手塩(オテシオ)ともいい、またこれが訛り、今は漬物用や醤油用としてよく使われるこの小皿を「おてしょう」と呼ぶこともあります。

 ところで、「手塩にかけて育てた娘」という表現があります。
手塩には、自分の好みに合わせて料理の塩加減を調節するという使い方もあったことから、他人任せにしない、しかも愛情を込めて自ら世話をすることを「手塩にかける」というようになった慣用句です。

 しかし、「手塩にかける」という言葉には、本来の「不浄のものではない」といったニュアンスもあるようです。
 あるいは、「手塩にかけた息子」という表現が一般的でないのも、手塩にかけて浄化するのは、赤不浄を伴う女の子に限ったことなのかもしれません。

地鎮祭
 地鎮祭にも塩が使われます。地鎮祭では普通、土地の中央に斎竹(イミダケ=忌竹)という葉付きの青竹を四方に立て、これに注連縄(シメナワ)を張りめぐらせます。
そして、注連縄にはシロい紙でこしらえる四手(シデ=紙垂)が垂らされます。

 この地鎮祭を略式で行う場合には、四隅に盛り塩をして行います。斎竹と注連縄に囲まれた空間が結界と呼ばれることから、塩はこれの代役を果たしていることになります。

 すなわち、塩は結界を構成するものといえるのですが、これはおそらく塩の浄化力だけでなく、そのシロい色にも結界の機能が期待されたのではないかと考えます。

 それは古来、障子や白貼襖(シラハリブスマ)、つまりシロ無地の紙が貼られた襖に囲まれた部屋というのは魔を入れない結界装置とみなされてきたことからもわかります。
日本人が障子を好むのは、このあたりにもその根拠があるようです。

 なお、障子の張替においても水を障子全体へ掛けて洗うことが好まれるのは、現実には障子そのものを傷めることが多いのですが、これもミソギハライ思想の影響かもしれません。

 また、以前は新しい下着や食器などをおろすときは元旦に行ってきました。そして、歳の暮に障子や襖のはり替えを行い正月を迎える準備をしました。
こうした習慣は、先述のように年が明けることによって古いもの、すなわちケガレたものが消滅し、新たなものが再生するという思想が働いているといえそうです。

 ところで、炊事や洗濯に利用される家電製品は白物家電と総称されることがあります。
これは、これらの家電へ日本で主に白色が用いられたことからの名称ですが、これも日本人が白に衛生的なイメージを抱いていたことからのデザインに相違ありません。
 ちなみに、海外では白物家電へ白色を配することは少ないそうです。

 さて、これまで申し上げてきたことから「シロ」は日の光から生まれ、防腐作用と浄化力がある、つまり衛生観と強く結びついていると同時に、その結果としての清浄を表し、さらには結界を象徴するもの、と日本人は考えてきたことがおわかりいただけると思います。

 次節では赤について考えてみましょう。
2011年05月27日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その3)

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世界に類を見ない自分専用の食器
 このようなケガレとミソギハライといった思想は、日本の環境風土に根差して生まれたものと考えます。

 世界にほとんど類を見ない日本人の特異な習慣に、個人専用の箸や食器を備えることがあります。
これを例として考えてみると、ケガレは、たとえば人に自分専用の箸や食器が使われたときに感じます。
逆に、それが近しい人のものであっても、自分が使うには抵抗を覚えます。

 これは高温多湿なわが国では一度口をつけ唾液がついたところは、雑菌が瞬く間に繁殖することを想像したのでしょう。
もちろん微生物が悪さをするといった考え方は19世紀までありませんが、ケガレとはこれを本能的に汚いものと考えた延長にあるものだと思います。

 そして、これを丹念に何度も水で洗うことによって汚さ(汚れ)が緩和されるとも考えてきました。

水で洗うことをミソギハライの手段とするのは、こうした理由も大きいものがあると考えます。
これは水が豊富、かつ清潔といった世界でも稀有な美水を保有してきた日本ならではの発想です。

 しかし、西洋食器を使うときには、こうしたケガレを感じないのはなぜでしょう。
それは一つに洋食器が皆どれも同じつくりであり区別がつかないからという理由もあるのでしょうが、日本の食器は手で口元まで運ぶから、つまり口に直接するからともいえます。

 余談になりますが、食器を持って食事をする民族は世界的にも珍しいといいます。
また、箸だけを使って食事を摂る民族も、箸文化圏の国ぐにの中でさえ日本以外には見られないといいます。

 ところで、今日では人が口にしたものを自分が口にすることに何の抵抗もおぼえない人が増えました。特に若い方では、こうした前代の呪縛のような意識が希薄です。

 それはケガレをハラうことに熱心であったがゆえに、今日の日本が、これまでに例を見ない、あるいは世界的にも類のない清潔な国を実現させたからだと考えます。

 ちなみに、日本人は箸の取扱いに多くのタブーを設け、これを「嫌い箸」と呼んできました。これにはケガレるという理由で禁じ手とされるものが多くあります。
たとえば鍋料理では取箸(トリバシ)を用いるのが常識とされるように、直箸(ジカバシ)もマナー違反です。

 ただ、逆に「直箸で一つの鍋をつつく」という行為には、これまで以上に人間関係を深める効果があると日本人なら考えます。

シロい紙
 先述のように日本の気候は本当に高温多湿でモノが腐りやすい、そして腐ったモノを口にすると当然健康が損なわれます。
また、こうした環境は、腐敗菌など細菌ばかりでなく、カビや害虫の生育にとっても極めて都合の良い状況です。

 これらに対処するため日本人は古来、さまざまな手段を講じてきました。
それは水で洗うばかりでなく、干物づくりのように日光に当てるといったこともその一つです。

 紙漉きではシロい紙料(紙の原料)を得るため、先述の水晒しを採用します。
サイエンスの知識がなかった頃の人びとにとって、水晒しの漂白力は神の恵み以外の何物でもなかったことでしょう。

 また、シロい紙料を得た後は、これで紙を漉き、最終的に板へ張り付け、天日干しにすることによって紙づくりを完了します。

 こうした理由で水の恵み、日光の恵みを備えた、シロ色(素色)の和紙は、ケガレのない清浄を表すものと考えてきたのでしょう。

 紙は神と音通することから神を象徴するといいます。そして、カミは古語でいえば女性を表す「ミ」に、神聖を表す接頭語「カ」を冠したものといわれます。

 ところで、室町時代には、紙の贈答が盛んに行われたそうです。
それは、現在においてこそ洋紙の存在もあって手漉きの和紙は相対的に安価ですが、当時は紙の供給が乏しく、それに反して需要が大きかったため紙は極めて大切にされたからです。

 たとえば室町時代に盛んだった、旧暦八月一日の「八朔(ハッサク)のたのみ」という贈答の習慣においては、紙が最も多く用いられたそうです。
こうした紙を進物とした慣わしは、現在でも結納飾りで見られる、紙10帖を水引で結んだ形の引出物として残っています。
 ですから、シロい紙への憧れは、その貴重性にも理由があったのでしょう。

 話は少し変わりますが、日本人は死体を異常に恐れます。それは、おそらく腐敗に対する恐れが原因で、死体が放つひどい腐敗臭を嫌ったからだと考えます。
もちろん死体が腐るのは日本に限ったことではありませんが、日本の高温多湿な環境はこうした腐敗を一層助長ものするものだったことでしょう。
これが死を忌む思想に繋がったのだと思います。

 物の腐敗することが多かった日本では腐敗を、たとえば腐った食物を口にすると中毒を起こすといった、健康が害されるものと恐れました。
あるいは、日本の特殊な生食文化が腐敗に対して過剰な敏感性を生んだのでしょうか。

 いずれにせよ、この腐敗をもケガレとしてきたことから、死臭はケガレを象徴する最たるものであったはずです。
そして、こうした死をケガレとするのは、すでに『古事記』のイザナギ、イザナミ神話に見られます。

 神道でいうケガレには黒不浄(死穢)と赤不浄(血穢)があります。
黒不浄とは死体に触れることによって生じるケガレ(穢れ)であり、赤不浄は血に触れることによって生じるものです。つまり、ケガレは触れることによって生じます。
 また、これらの他に、白不浄(産穢)を設け、三不浄とすることもあります。

これらは、いずれも死を連想させるものです。
黒不浄のみならず、赤不浄が吐血や喀血、あるいは外傷といった傷病に伴うものであり、死を想起させるものであることはいうまでもありません。

そして、白不浄を死の忌みとするのは、かつて出産時に出血を見るだけでなく妊婦や嬰児の死亡率が高かったからでしょう。
つまり、白不浄は出生といった喜び事とは裏腹の、黒不浄と赤不浄を複合するものであるからです。
 なお、赤不浄は経血のみ、あるいは経血と出産を含めての不浄とする場合があります。

 ところで、腐敗が多かったことは、逆に日本で納豆や熟れ鮨(ナレズシ)、また世界で最も硬い食品とされる鰹節や奇跡の食品とまでいわれるフグの卵巣の糠漬けなど、発酵作用を極めて上手く利用してきた歴史を見ればわかります。

 つまり、腐敗と発酵は、まるで陰陽のような表裏の関係です。
いずれも菌の働きによるものですが、発酵は人に役立つものであり、腐敗は役立たないものという点にのみ相違があるからです。
そして、腐敗が進んだように見えても、有用さが発見できるものがあることを日本人は経験上、多く見知っていたからです。

 ちなみに、表具で用いる特殊な糊、「古糊」は腐り糊とも呼ばれるように、何年も温湿度変化の少ないところで保存し、特化した用途で役立つものに作り変えた糊です。
2011年05月26日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その2)

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Ⅱ-① 白の意味

日本では古来、白が神聖な色として神事に用いられ、ケガレのない清浄を表す色として用いてこられました。
 それはなぜなのでしょう。

ケガレ
 ケガレとは多くの辞書によると、けがれること、また清潔さや純粋さなどを失うこと、失われていることを意味します。
あるいは、古くなってモノが傷むこともケガレといいます。

 すなわち、ケガレとは通常あるべき姿が、そうでない状態に移行する、あるいはしたことをさしているといってよいでしょう。

 ケガレへ神道では「穢」の字を当てることが多いようです。「穢」はそもそも畠などに雑草の生い茂る様をいい、転じてキタナイ、ケガラワシイといった意を持つようになります。

 また、ケガレに「汚」の字を当てることもあります。この「汚」は本来、濁れる溜水をいい不潔であるさまをいいます。

 こうしたケガレ思想の存在は日本人にとって根深いものがあり、それこそ日本のしきたりに極めて多く関わっています。

白色とは
 白はそもそも今日でいうところの真っ白をさしたのではなく、少しくすんだ白っぽい色をいいました。

 それは古代には、あるいは近世になるまで素材を漂白する技術が低く、少しくすんだ感じの白色(オフ-ホワイト)にしか白に近づけることができなかったからでしょう。

 オフ-ホワイトとは、純白でない白っぽい色をいいます。
そして、このシロは古来、生成り色(キナリイロ)とも呼ばれます。生成りは「黄なり」とも字を当てることから、この場合のオフ-ホワイトは、ベージュ系オフ-ホワイトをさします。そして、伝統的な製紙技術をもって漉かれた紙も、おおむね淡い黄色を呈します。

 また、「生」をキと発音するときは「生醤油」や「生粋」といった純粋な、混じり気のないという意味を持ちます。さらに「生娘」や「生糸」といった語が示すようにキには、未だ、あるいは人工でないといった意味もあります。

 ですから、キという語は古代から、色でいえば黄色、構成内容でいえば純粋を意味してきたのでしょう。

 こうした意味から、生成りは「何も手を加えていない自然なまま」ということでもあるので、そして「生地(キジ)」を「素地」とも書くように、「白」を「素」と表記することがあります。
韓国でも、この色へは「素色」という特有の色名を当てています。

 なお、日本では伝統的に、純白の色をさす必要のある場合、「雪色」といった色名を用いてきました。

 ところで、漂白技術の拙さがこの雪色、すなわち純白色を得ることができなかった理由と述べましたが、それでは近代に至るまでの漂白手段にはどんなものがあったのでしょうか。

 その一つに「水晒し」があります。素材を水に浸して太陽光線に当てるというのが水晒しです。
これは実際、理に適っており、水中の酸素が日光の紫外線により過酸化水素とオゾンを生成させ、この過酸化水素が漂白の力を備えているからです。

 ですから、生成り色とは洗い晒した色とも考えることができます。
日本語の「洗い」には「清い」という意味があり、「洗い晒し」といった語にも日光のイメージを伴う、なにかしら明るく清潔感が伴ったニュアンスがあります。

 こうした清潔感、清浄感を得ることが神道でいうミソギの思想であり、ミソギはハライ(ハラエ)とセットにされ、多く「ミソギハライ」として扱われます。

 ミソギは身を清めるために行います。ハライは罪やケガレをはらうために行うことであり、どちらかというと心を清めるために行うことといわれます。
 そして、ケガレは新しくする、いいかえれば再生させることによっても、ハラうことができると考えられてきました。

 『古事記』にはイザナギがその妻、イザナミを黄泉(冥界)へ迎えに行った際、彼女の腐敗して変わり果てた姿を目の当たりにし、一人ほうほうの体で逃げ戻った件があります。
このとき海水で洗ってそのケガレを浄めたと記されます。このように水で洗えば綺麗になるといったことも、ミソギハライ行為の一種です。

 そして、こうしたミソギハライという一種の救済システムが、再生の思想を生みます。つまり、「ケガレても大丈夫なんだよ、ミソギハライでまた生まれ変われるんだよ」といった考え方です。

 たとえば日本の将棋に「持ち駒(手駒)」ルールが生まれたのも、こうした考え方の反映であったのかもしれません。
日本将棋はチェスなど他の類似する盤上遊戯のなかで、唯一、取った駒をまた活かすことができるゲームです。

 また、米国に殺人罪(第一級謀殺)の公訴時効はありませんが、日本では延びたとはいえ25年で時効です。月日がすべてを解決する。起きてしまったことはしょうがない、水に流そうじゃないか。
こうした無常観は、この再生の思想が基になったものかもしれません。
2011年05月25日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅱ.紅白の章(その1)

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Ⅱ.紅白の章

 この章では在来文化から慣習化したしきたりを中心に考えてみましょう。
 しきたりは多く民族の宗教観から生じます。つまり、在来文化は民族信仰に根差します。

 ところが、この日本の民族信仰にはキリスト教における聖書、イスラム教のコーランなどに相当する啓典がありません。
 ですから、いきおい生活文化の中に、隠れた信仰を求めざるをえません。

 そこで、本章では身近な習慣から、しきたりの由来について考えてゆきます。

 さて、日本人にとってお祝い事での、あるいは今はもう昔のことになるかもしれませんが、お中元やお歳暮といった贈答の習慣は欠かせないものです。
 まず、この贈答品につきものの「のし」についてお話しを始めましょう。

のし
 お祝いを贈るときなどに用いる祝儀袋や贈答品に付ける紙は、のし袋やのし紙とも呼ばれます。

 しかし、そもそも「のし」とは「熨斗」と書き、細く六角形に折った紅白の色紙(イロガミ)の中に貼り付けられている、縮んだ黄色っぽい紙のみをさします。

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 ただ、あの黄色い紙も本来の熨斗ではなく、それは熨斗鮑(ノシアワビ)を模したものです。アワビの身を薄く削いで干物にし、それを熨(ノ)したものが「熨斗鮑」であり、これを略した「熨斗」がその名の由来です。

 ところで、そもそも熨斗は火熨斗(ヒノシ)といい、今でいうところのアイロンをさします。つまり、「熨す」という語は火力の熱によって、ものを「伸ばす」という意味です。

 この「伸す」には「延す」とも漢字が当てられることから、熨斗が延命長寿の意を持つようになります。よって、「熨斗鮑」は「延鮑」とも書きます。

 なお、簡略化された現在の「のし」には、その形を印刷した「判熨斗」や、「のし」という字を一筆書きしただけの「文字熨斗」などいろいろな種類があります。

 今日では本物の熨斗鮑を見る機会は、結納飾りぐらい以外にほとんどありませんが、毎年熨斗鮑が供えられる伊勢神宮近くの鳥羽市国崎には、神宮司庁所管の御料鰒調整所(ゴリョウアワビチョウセイジョ)があり、今でも本来の熨斗鮑がつくられています。

 ところで、それではなぜ贈答品にこうした熨斗による飾りが用いられるようになったのでしょうか。

 古来、日本で吉事には御酒(ゴシュ)を頂くことがしきたりです。
これは神事での慣習から生まれたものであり、このとき酒とともに魚や鳥肉などの「生臭(ナマグサ)」が欠かせません。それは日本酒と生臭との相性が良かったからでしょう。

 ちなみに、これが日本の特殊な生食文化を生んだといえます。
たとえば欧米では卵を生で食べると病気にかかると信じられているように、生卵を食べる習慣があるのは世界でも珍しいとされます。

 さて、いずれにせよ贈答品に海産物を添えるという風習は古くからあり、熨斗鮑も神に捧げる供物である「進物」として、吉事には酒と一緒に添えて贈られてきました。

 時代を経るにつれ、特に江戸時代以降は祝儀の進物に熨斗をつけて先方を祝う習慣が起こり、酒肴を添えるしるしの意味で包み紙の上に付けるようになったといわれます。
このとき、六角形に折った紅白の紙で熨斗鮑の一片を包んだ「包み熨斗」が一般的であったようです。

 ちなみに、アワビへ日本で「魚偏に包む」という漢字を当てたのもこれが由来でしょう。本来、アワビは「鰒」と書きます。
そして、「鮑」はそもそも塩漬けの魚、あるいは腐った魚を意味します。

 ところで、現在、贈り物に熨斗を付ける場合はお祝い事、すなわち慶事に限ります。
そして、仏教では生臭物を断ち精進を尊ぶ事から、お葬式など弔事で用いるものに付けるのは禁物とされ、このとき熨斗鮑の替わりに昆布を用いた昆布熨斗を付けることもあります。

 逆に、仏事に関係のない贈答品には、精進でないことを示すため、生臭物の代表として熨斗を添えるようになったともいわれます。

 また、アワビ自体がそもそも生ものですから、本当は「魚介類や鳥、卵などを贈る場合には、生臭の重複を避けて熨斗を付けない」というのもルールです。
このときの進物は紅白の紙で包み、さらに紅白の水引(ミズヒキ)のみで包装するのが普通です。

 さて、熨斗は品物の無害を示すシンボルで、ケガレがないことを表すものとされてきましたが、はたして熨斗鮑にそうした効能があるのでしょうか。

 確かに古代の中国では、アワビを「不老長寿」や「延命若返り」といった薬理効果が高い食物とみなしていました。

 しかし、アワビ自体にケガレを排する力があるわけではありません。ですから、熨斗鮑ではなく紅白の包装紙と、紙を縒ってつくる水引にそうした機能があると考えるほうが自然です。
それは、他の生臭を贈るときにも紅白の紙で包み、水引をかけるからです。

 したがって、紅白にケガレを除する力、すなわちこの場合には抗腐敗作用があると考えられていたのでしょう。

 そこで、次回以降では、これを白と赤、それぞれについて考えてみたいと思います。
2011年05月24日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その9)

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北枕
 ご遺体の頭を北方向に向けて安置する北枕といった習俗は、どうした理由から生まれたものでしょう。

 北枕はそもそも「北枕西面」といい、お釈迦さんが入滅されるとき、北方向へ頭を置き顔を西へ向けて横になられたという理由で生まれた習俗といわれます。
 これによって、日本では特に死を忌むことから、北の方角へ頭を向けて寝る北枕は、縁起が悪いこととされてきました。

 ところで、日本の在来仏教は、新興宗教を除き大きく分けて13宗あります。
このうち融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗の4宗が浄土系とされます。

 この浄土系諸宗、および浄土教を奉じる宗派では、阿弥陀如来を信仰することによって彼岸に至ることができるというのが教義の中心です。
 そして、彼岸に至れば仏の住む清浄な国土、つまり浄土で住まうことが可能とされます。

 この浄土は十方に存在すると数多の仏教経典で説かれますが、なかでも阿弥陀さんがおわします浄土が西方極楽浄土であり、この世界へは死後に行き着くと説教されます。

 「彼岸に至る」ということは、仏教の大目的である悟りを得て六道輪廻(リクドウリンネ)から脱することをいいます。

 仏教に多くの宗派が存在するのを説明するのに、よく引き合いに出されるのが登山です。彼岸を山の頂上にたとえ、どのルートを通っても、ようは頂上を極めればよいのだということです。

 つまり、頂上が浄土に至ること、すなわち悟りであり、多く存在する登攀ルートが宗派・宗門であるというわけです。

 そこで、阿弥陀如来を信仰しさえすればよいといった、頂上に至る道が明確に示されているのが浄土の教えです。

 浄土教では人が臨終を迎えるとき、阿弥陀如来が来迎すると説きます。来迎とは「お迎えに来る」ことで、ちなみに「お迎え」が死出の旅を意味するようになるのは、これが由来です。

 さて、浄土系諸宗での慣習に、人が臨終を迎えるとき、阿弥陀如来が描かれた三曲半双屏風(3面で構成される1本の屏風)を立てることがあります。
 これには五色の幡(ハタ)、あるいは糸が、中央に描かれる阿弥陀如来像が結ぶ指の間から垂らされています。

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[三曲 来迎図屏風]

 この、丈1メートルに充たない屏風は、死に臨む者が横臥し、その五色の幡(または糸)を掴みながら、あるいは指に掛けながら極楽往生を願うという臨終行儀用の調度です。

 そして、阿弥陀如来は西方極楽浄土より来迎することから、この屏風は東向けに寝床から1.5メートルほど離して立てます。
 このとき阿弥陀如来像を見つめながら、あるいは人は心臓への負担を避け左肩を上にして西を向くことが多いので、頭は北方へ向いていることになります。

 これが、そもそもお釈迦さんの涅槃(入滅)の様子からおこったとされる「北枕西面」という臨終行儀を広く定着させる一因となったのでしょう。

 ただ、浄土真宗では迷信を忌む宗風から、北枕はおろか葬儀における「逆さごと」は一切行わないとしています。

 「北枕」には陰陽論に起因する理由があったかもしれません。陰陽論では頭を陽とするので、頭を北(陰)へ向けるのは、陰陽論に反しています。

 しかし、葬儀にまつわる場面では通常と逆のことを行うという、先述の「逆さごと」ルールがあります。北枕は、これが作動した結果として広まった習俗とも考えることができます。

 話は変わりますが、家相をいたずらに気にする風が多いのも陰陽師などの喧伝によるもので、たとえば先述の鬼門などは最たるものです。

 ただ、日本各地に見られる、「同一屋敷内で、母屋の東に分家や隠居屋を建てるのを忌む」といった西への多くの関心は、この西方極楽浄土思想の投影とされますが、これは東からの日照を問題にしている場合もあります。

 家相は快適な生活を営むためになされたものも多くあることから、すべてがすべて迷信として退けるのではなく、このあたりの見極めが大切です。
2011年05月23日(Mon)

表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その8)

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五行説のルール 「天子は南面す」
 古代中国で君主、すなわち帝王を意味する天子は、南へ向かって政治を執るべきものとされていました。これを「天子は南面す」といいます。

 ですから、隋・唐の長安城に倣った平安京の内裏なども正面が南に向かうよう計画されました。
そして、大内裏にある12の門のうち、朱雀門が最も重要視されたのは、これに由来しています。つまり、朱雀門が天皇の正面に位置し、つねに目に入るからです。

 さて、「天子は南面す」が元となり、君主に限らず主体はつねに南面するものと考えられてきました。
たとえば大相撲の正面位置も同様に北から南へ向かっての観戦です。

 ただ、相撲はそもそも神事とされたことから、正面は神様の位置です。ですから、民衆は本来が「向こう正面(南側)」からの観戦であったにもかかわらず、NHKの大相撲中継は正面から放映するといった神様目線のものです。

 また、特に関東地方でお正月に飾る門松も神様の視点に基づくものです。年神様(トシガミサマ)が降りてくる目印が目的とされる門松は、向かって右へ雌松(メマツ=赤松)、向かって左に雄松(オマツ=黒松)を配するのも、これが理由です。
このように神道は多く中国思想を取り込んだことから、神道のしきたりにも陰陽五行は深く根付いています。

 ちなみに、土俵の上に設けられる吊り天井と土俵の形も方円相対にしたがっていますが、天円地方の思想により、江戸時代中頃までの土俵は四角かったといいます。

 ところで、[図-1]と、[図-3]から[図-5]の陰陽魚は、向きが真逆になっています。これは[図-1]が主体から見ての太極図であるからです。

 四天王を二次元的に、すなわち絵画で表現する場合にも五行説が援用されます。
四天王は仏教で四方を守護する護法神とされており、それぞれ東方守護が持国天(ジコクテン)、南方守護が増長天(ゾウチョウテン)、西方守護が広目天(コウモクテン)、そして北方守護が多聞天(タモンテン)です。

 ちなみに、この順は「持・増・広・多」であることから、昔から「地蔵買うた」と関西弁で覚えれば忘れることがないといわれます。

四天王の配置パターン(その1)
 この四天王を画面に配するときには2様あります。
いずれも五行説にしたがっており、その一つが向かって右上に持国天(東)、右下に増長天(南)、左下に広目天(西)、そして左上には多聞天(北)を配する仕方です[図-6]。

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[図-6:四天王の配置パターン(その1)]

 このとき画面に向かって右半分が陽、左半分が陰となり、たとえば先述の左京区・右京区の例はこれに則ったものです。

 また、この仕方では南が向かって手前右、西は向かって手前左となります。
これは南の配当色である赤が向かって右、西の配当色である白は左と読み替えることができます。
紅白の水引が向かって右を赤、左は白で結ぶといった約束事の根拠がこれで知れます。

 江戸期に活躍した画家、尾形光琳(オガタコウリン)の代表作「紅白梅図屏風」に見る紅白梅も同様です。これには向かって右に紅梅、左へ白梅が描かれています。
このように古来、紅白を並置させる場合、向かって右に紅(赤)を配することが普通です。

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[尾形光琳 紅白梅図]

 ただ、NHK「紅白歌合戦」で向かって右(上手)が男性陣、向かって左(下手)が女性陣というのは陰陽論と合致しますが、なぜか紅(陰陽論では男)と白(陰陽論では女)の使用法は異なっています。

 紅白は日章旗の配色で見られるように日本を表し、かつ赤(紅)と白に分かれるのは、やはり源平の合戦を由来とするのでしょうが、この番組で紅白へ男女の配当を逆にしたのは赤が女性を象徴する性色である、とされてきたからかもしれません。

 ところで、大相撲で土俵の上に設けられる吊り天井に付けられた四房の色も、この配置に則った五行説によるものです。このとき中央の配当色である黄色は土俵が表しています。

四天王の配置パターン(その2)
 もう一つの仕方が、(絵画においては、こちらのほうが多数派ですが)たとえば興福寺が蔵する南円堂曼陀羅図に描かれた四天王に見られます。
 この図の中央には大きく主体である不空羂索観音(フクウケンジャクカンノン)が描かれ、四天王は向かって右下に東の持国天、左下に南の増長天、左上に西の広目天、そして右上には北の多聞天が配されています[図-7]。

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[図-7:四天王の配置パターン(その2)]

 このとき主体である不空羂索観音から見て、手前が陰、向こうが陽となります。
これを根拠に、つまり主体はつねに南面するものとされたことから、主体から見てすべからく手前が陰、向こうが陽になります。

 たとえば先述した衽の右前合せや、日本料理の配膳における手前が海のもの(陰)、向こうに山のもの(陽)を配する根拠がこれにあります。

 さらに、このパターンにおける陰の部分の配当色は、向かって右が黒、左が白です。不祝儀袋に用いる黒白の水引を向かって右に黒、左へ白を配して結ぶ理由がこれで知れます。

なお、白を向かって左へ配置するのは両パターンとも共通することから、白と何かを並置する場合、向かって左へ白を置くのが原則といえそうです。

 また、このパターンで画面に向かって左半分へ注目すると、上が西で陰、下が南で陽となります。
これを踏襲した例に、たとえば書作品の落款(ラッカン=署名)下に押印される印章の捺印法があります。

 この押印は、一般に白文(ハクブン)と朱文(シュブン)の2顆(カ)を用いることが普通です。白文は文字が白抜きで現れるもので、陰文ともいいます。
朱文は逆に文字が朱で現れるもので、陽文ともいいます。作品へは、これらを上下に並べて押します。このとき、このパターンの配置にしたがって上へ白文、下に朱文を用いることが約束事になっています。

 ところで、白文を陰、朱文を陽とするのは、白文を刻すときには文字部分を彫り込む、逆に朱文の場合は文字が浮き出るように文字周りを彫り込んでゆくところからです。
これは海が陰、山が陽とするところから、こうした規定がなされたものでしょう。また、陰が白、陽が朱で文字が表現されることも、陰陽五行に則っています。

 さて、話を戻しますが、以上のような画面の使用法は阿弥陀来迎図(アミダライゴウズ)においても同様です。
この図は人の臨終にあたり西方浄土(サイホウジョウド)にいる阿弥陀如来が多く聖衆(ショウジュ)を伴って訪れるさま、つまり来迎を表現したもので、阿弥陀如来および聖衆は必ず画面左上(西方)から現れます。

 ちなみに、西方浄土はたくさんある浄土の一つで、正しくが西方極楽浄土であり、単に極楽ともいいます。
ですから、極楽往生とは厳密にいえば、浄土教の説く阿弥陀如来を信奉している人(念仏行者)に限定される言葉です。

 この浄土とよく比べられるものに、地獄があります。「地獄極楽」というように日本人は古来、(仏教の教義上は、そうではありませんが)地獄が極楽(浄土)と対極にあるものと考えてきました。

 そして、この地獄からの救済を担うのが地蔵菩薩とされます。浄土教には、この地蔵菩薩も来迎を行うという信仰があり、多くの地蔵来迎図も制作されてきました。
こうした地蔵来迎図では、地蔵菩薩が画面右上から現れるように描かれます。

 それでは、なぜ地蔵菩薩がこのポイントから出現するのでしょうか。
それは地獄の色が黒とされたことにより、五行の説く黒の配当が、このパターンによると画面右上であるからです。

 ところで、漢字圏の二次元平面では文字の書き出しが上からであり、そして下へと向かいます。
書かれた紙を主体に考えれば、上が陰、下が陽となります。陰陽論を陽陰論、あるいは影日向(カゲヒナタ)を日向影といわないのは、こうした原則にしたがったからでしょう。

 また、一般にエビス・ダイコクをダイコク・エビスと呼ばない理由もこれにあります。つまり、先述のようにエビスが陰で、ダイコクが陽であるからです。

 つぎに東西方向を注目すると、たとえば青龍白虎図は青・龍=東、白・虎=西であることから、必ず龍を向かって右へ配置させます。
これは上記2様の、いずれのパターンにおいてもそうであることから、東西に関していえば、平面の画面では向かって右が東、左が西となります。

 ただ、大相撲では向かって左から東の力士が、右から西の力士が出場します。また、番付表も左方が東、右方が西となっています。
これは先述のように大相撲の観戦が神様(主体)の目線であるからです。

 言い添えれば、相撲が東西に分けられたのは江戸時代になってからといわれますが、東の力士が上位とされたのは尚左の思想によるものです。

 さて、以上を要するに、陰と陽の相反するものを並置する場合、左右方向では向かって右が陽、上下方向では多く向かって下に陽を配するのが陰陽五行にしたがったルールといえます。
2011年05月22日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その7)

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鬼門と鬼の姿
 なぜ鬼には角が生え、虎の縞柄褌(シマガラフンドシ)がつきものなのでしょう。

 これは方位と関係があります。古来、日本では北東位を万鬼の集まる鬼門としてきました。この鬼門は日本の昔の方位の呼び方でいえば丑寅(ウシトラ=艮)です。

 北東位を丑寅の方角と呼んだのは、十二支を方角の呼称へ応用したところによります。
たとえば「子午線」という言葉は北を「子」、南を「午」とすることからから生まれた名称です。

 すると北東は丑の方角と寅の方角の中間位となることから、日本では北東方向をウシトラと呼ぶようになりました。

 さて、この丑寅の方角を邪悪な鬼が出入りする鬼門とするには諸説あります。
なかでも陰陽二元論による根拠は、ちょうど陰の気が衰え陽の気が芽生え始めるといった、二気が極めて不安定になるときであるので、良くないことが起こりやすいといった後付けの理由です。

 ですから、北東の逆側、すなわち南西も逆鬼門(裏鬼門)として忌まれてきました。南西方向は、旧い言い方では未申(ヒツジサル=坤)といいます。
 [図-4]は方位に陰陽太極図を当てはめたものです。

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[図-4:方位と太極図]

 さて、オニという鬼の読みは「陰」あるいは「隠」の呉音読み、オンが訛ったものとされることから、鬼は陰の象徴的な存在です。

このように古くから邪気を代表する鬼は、北東(丑寅)から侵入すると信じられてきました。
そこで、昔の人は鬼が丑寅からやってくるものだから、鬼の姿はきっと牛と虎を連想させるものに違いない、と考えたのです。

 つまり、日本で語られる擬人化された鬼の角は牛(丑)の角を摸したものであり、鬼の図に見られる鬼の褌、および鋭い牙や爪は虎(寅)を象徴するものなのです。

 一方、鬼門の由来に、道教で冥府の神として信仰されていた「秦山府君」の住む山が北東にあったことからという説もあります。
 ただ、鬼門の名称こそ中国古代の地理書『山海経』に記されたとされる物語が元となっていますが、鬼門による迷信を信じていたのは日本人だけだといわれます。

 したがって、以上のような姿の鬼は日本のオリジナルな図柄です。能面の般若や民俗芸能に用いられる鬼太鼓面(オンデコメン)の造形も、これを基にしています。

「草木も眠る丑三つ時」
 十二支は方角だけでなく、時辰(ジシン)という時刻の呼称としても用いられました。これは一日24時間を12等分するものです。
たとえば「子(ネ)」の刻(コク)は午後11時から午前1時を表します。また、子と対面する「午」の刻は、午を「ひる」とも訓むように、午前11時から午後1時です。
ですから、先ほど述べた丑寅は時刻でいうと午前3時にあたります。

 ところが、中国で明代以降になると西洋の24時間制が採り入れられ、時辰も2分されて1時間に相当する小時(小時辰の略)も用いられるようになります。これにより時刻も「初(ショ)」と「正(ショウ)」に分けられました。
 たとえば太陽が南中する午後12時は午の正刻であることから、正午と呼ばれます。逆に、午前0時は正子(ショウシ)といいます。

 ところで、日本では江戸時代に入ると時鐘の数に由来する「数呼び」という新しい時刻の呼び方が生まれます。
 たとえば子の刻は9回の時鐘で報知されたので「九つ」と呼ぶようになりました。そして、2時間毎に八つ、七つ、六つ、五つ、四つと減じながら午前を巡り、午の刻に再び九つとなります。
 このとき三つ以下がないのは、時辰と時辰間の2時間をさらに四分し、つまり30分毎にそれぞれ一つ、二つ、三つと呼んだからです。

 ちなみに、午後2時から3時ごろに仕事の手を休めて軽食をとる習慣が江戸時代から始まりました。
この時間がおおよそ八つであったことから、この八つ時に食べる間食を「お八つ」と呼ぶようになり、次第に間食自体を「おやつ」と総称するようになったといいます。

 さて、かつて怪談話での枕詞ともされた、魔物が出やすい時分という「草木も眠る丑三つ時(ウシミツドキ)」は、したがって午前2時半からの30分をさしますが、江戸中期以降は午前3時以降の30分をさします[図-5]。

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[図-5:時辰と太極図]

 これは時鐘が正刻(ショウコク)に打たれたことにより、次第に時鐘からその時辰が始まると考えられるようになったからです。
したがって、時鐘の打数による時刻は、十二支によるものと1時間ずれることになります。

 ところで、なぜ丑三つ時には魔物が好き勝手な振る舞いをすると考えたのでしょう。
「百鬼夜行」という、魔物が徘徊すると信じられていた時刻が丑三つ時を境とする時分であり、江戸時代の庶民のイベントである「百物語」という怪談会も、この時刻にクライマックスを迎えるよう催されます。

 丑三つ時は江戸時代を通じて丑寅を中心とする午前3時あたりの時間です。
そして、時刻には鬼門に用いた丑寅といった呼称を用いることがなかったので、丑三つ時をこれの代用としたからです。
つまり、丑寅の方角が持つ、魔物が跳梁跋扈するという鬼門の意味が時刻にも転用されたということです。

 いずれにせよ、これらも陰陽五行から派生した迷信です。
丑時に神社境内の樹木へ藁人形を五寸釘で打ちつけ、恨み相手の死を願ったという呪術「丑の刻参り」も同じ次元にあるものでしょう。

 また、節分に鬼を払う行事はかつて大晦日に行われました。その理由は鬼門や丑三つ時と同じです。

 一年を一日にたとえると、ちょうど丑三つ時あたりが年の区切となります。
大晦日は旧暦でいえば丑(12月)が寅(1月)に移行する前日であり、五行説ではこの日が明ければ陰陽の二気が逆転するとしてきました([図-3]、[図-5]参照)。
そして、節分の翌日である元旦から新たな陽が始まると考え、これをもって「一陽来復」としました。

 つまり、大晦日に邪気をハラうことにより、新春が無事に迎えることができると信じられていたからです。年が明けると「おめでとう」と祝辞を述べるのも、これに由来します。

 なお、かつての暦では立春を冬至と春分の中間日あたりと定めたことから、現在の暦とはズレが生じています。
また、節分とは節を分けるということであり、そもそもは各季節の始まりの前日、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日をいいますが、今日では特に立春の前日をさすことが普通です。

 ちなみに、年賀状へ「初春の…」と記すことも、旧暦では1月1日をもって、つまり節分(大晦日)の翌日から春が始まるとしたからです。
2011年05月21日(Sat)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その6)

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Ⅰ-② 五行説

 五行説は、木・火・土・金・水の五元素が宇宙を構成するとし、五元素にあらゆるものを配当して、天地万物を説明しようとする自然哲学です。

 たとえば、時においてはこの順に春・夏・土用・秋・冬、方角においては東・南・中央・西・北、および色においては五色、すなわち青・赤・黄・白・黒を配当します。
 さらに、五行では青春、朱夏、白秋、玄冬など各要素を多様に組み合わせます。

また、中国古来の四方の守護神をこれらへ配し、東の青龍(蒼龍)・南の朱雀(鳳凰)・西の白虎・北の玄武とするように複合して用いることもあります。
このとき中央には麒麟(黄龍)を配することがあります。

 ところで、五行説も陰陽二元論と同じように展開し、これらの五元素は互いに影響を与え合い、それらの生滅盛衰が万物の生生流転を招くとする思想に発展します。

 これによって森羅万象の循環、たとえば人の一生も生から死を、東から南、西そして北へと時計回りに当てはめることによって説明しようとするものになります。
 ですから、若さは青と春(青春)で表現します。「青い」という日本語、たとえば青田買いや青二才などに用いる「青」という語が「未熟な」という意味を持つのも、これが一つの由縁です。

 また、「赤」が「熟」という意味を持つのも、トマトやリンゴなどが青から赤へ変色して熟れるといった自然現象による理由に限らず、やはり赤が壮年を表す五行説に因るものもあるでしょう。

土用っていつのこと?
 土用の「土」は、もちろん五行思想による五元素の「土」が由来です。
現在では1年が365日であるので、365÷5(行)=73日、73日÷4(季)=18.25日であり、春夏秋冬はそれぞれ73日間、そして土用は各季の前の18~19日間をさし、合計が73日間です。

 あるいは、五行における季節の配当へ、すべての土用の代わりに季夏のみを当てる場合もあります。季夏は晩夏のことで、立秋の前の夏土用をさします[図-3]。

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[図-3:四季と太極図]

 なお、旧暦では一年が平均して360日とされたことから、土用はほぼ18日間、各季はほぼ72日間でした。

陰陽論と五行説の組合せ
 今から二千年以上も前、春秋戦国時代の末頃に、中国では陰陽論と五行説が一体で扱われるようになります。
 たとえば東・南が陽であり、西・北が陰となります。
日本の「山陽」、「山陰」の地名も、それぞれ中国山地の南、中国山地の北の意であり、これを由来とするものです。

 干支(カンシ)もそうです。干支は十干と十二支の組合せであり、十干(甲、乙、丙、丁…)は陽と陰が交互に配されたもので、十二支(子、丑、寅、卯…)も同じです。

 たとえば十干を例に挙げると、木(もく)は訓読みで「き」。さらにこれを陽と陰で表すのに「兄(え)」と「弟(と)」を使用したことから、日本では木の陽である「甲」を「きのえ」と訓じ、木の陰「乙」を「きのと」と訓みます。
なお、これが干支を「えと(兄弟)」と呼ぶ理由です。

 そして、陰陽で分けられた十干と十二支を、陽と陽、陰と陰で組み合わせて暦をつくります。
ですから、たとえば「甲子」という組合せはあっても、「甲丑」という組合せはありません。

 つまり、十干十二支は10と12の組合せであるので本来は120通りの場合があるはずですが、陽と陰は組み合わさないので60通りの組合せしかありません。
すると、60年で暦が還る(一巡する)ことから、これを還暦と呼んできました。

丙午生まれの女性
 丙午(ヒノエウマ)生まれの女性はなぜタブーとされたのでしょうか。
これは陰陽五行によると丙=火の兄、午=南(南中)であることから、丙午には陽の気が最も盛んとなり、この陽中の陽に陰である女性は陰陽五行思想にそぐわないということで、いわば古人にとっては血液型不適合のようなものであったからです。

 こうしたことから丙午生まれの女性は女性であるにもかかわらず「気が強い」、あるいは「男を食い殺す」といった俚諺が生まれました。
 しかし、この丙午の迷信を信じてきたのは日本人だけであったといいます。

 陰陽五行は本来、思考の便宜をはかるために事物を名付けて特定する、たとえば干支にみられる単位のようなものです。
 ですから、陰陽五行を基としたものへさらに陰陽五行による理を重ねて意味を持たせよう、あるいは陰陽五行の各要素に性格を持たせようとするのは、単なるこじつけであり屋上屋を架すようなものです。そうした途端に陰陽五行は胡乱なものになり、これが迷信を生む元となります。

 たとえば土用(の期間)には土いじりをしてはいけないといったタブーも、土用には土の神様がお怒りになるからだ、といった日本独自のアニミズム的な発想による付会です。

 ところで、丙午による迷信はこれまで多くの悲劇を生んできました。特に江戸時代中期以降、丙午の年に生まれた女の嬰児は相当に間引かれたと伝えられます。
また、明治に至っても1906年(明治39年)に生まれた丙午の女性の多くが結婚できなかったといわれます。
さらに1966年(昭和41年)の丙午では出生数が前年比25%減であり、妊娠中絶を行った夫婦も多かったといいます。

 そもそも日本においては「七歳までは神のうち」というように子供は神仏より授かるという信仰があったことから、子どもをとても大切にしてきました。
ですから、日本社会での中絶は一貫して犯罪行為とされてきています。こうした犯罪を泣く泣く行ってきたのも、丙午の迷信がいかに強かったかを物語ります。

 ただ、「七歳までは神のうち」とされたのは江戸時代以降といわれます。それまで庶民は生きてゆくため子どもを嬰児のうちに間引きすることも普通であったといいます。

 ところが、江戸時代の、子どもは神仏の授かりものとした考えが子どもを慈しむ親心を育て、またかつて乳幼児の死亡率が高かったこともあいまって、江戸時代には次第に「七歳まで」のイベントである七五三といった通過儀礼の風習が一般の者にまで広まったといいます。

 ところで、人口高齢化は先進国共通の現象ですが、日本の高齢化のスピードは他の先進国に比べて異常に速いといわれます。

 終戦直後、日本は食料危機に陥り、飢餓が深刻な問題となっていました。
そこで産児制限のため、1948年(昭和23年)「優生保護法」という法律がつくられ、人工妊娠中絶が可能になったのです。
 しかし、産児制限を始めた直後の1950年(昭和25年)には朝鮮動乱が勃発し、その特需景気によって、産児制限の必要はなくなっていたのですが、その後20年に亘って出生率の低迷が続き、制限前の270万人ほどだった年間出生数は約170万人に減少してしまいます。
 それはおそらく「子どもの数を簡単に調節してもいいんだ」という、それまでの倫理観を覆すような認識が、国民に広まったことが大きく影響しているといえる、とする専門家の分析があります。

 次の丙午は2026年ですが、このとき出生率が、さらに下がることのないよう祈ります。
2011年05月20日(Fri)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その5)

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恵比寿さんと大黒さん
 縁日などで売られる熊手や額に、並べて飾られる恵比寿さんと大黒さん。どちらが右に配されているかご存知でしょうか。

 恵比寿さんは釣竿と真鯛を持物(ジモツ)とした神像が定型です。これは恵比寿さんが漁業神ともいわれるからです。
 一方、大黒さんは烏帽子(大黒頭巾)をかぶり、金囊(キンノウ)と呼ばれる袋と打出の小槌を持物とし、米俵や臼に乗った形で表現されます。こちらは農業神といわれます。

 恵比寿さん、大黒さんがペアで扱われるのは、それぞれ海の神、山の神ということで陰陽論を反映したものであり、したがって並置させる場合は、向かって左(陰)に恵比寿さん、右(陽)に大黒さんが配されます。

獅子と狛犬
 九谷焼による土産用の獅子には、開口タイプの阿形(アギョウ)と閉口タイプの吽形(ウンギョウ)の一対でつくられるものがあります。これら一対の獅子も、もちろん陰陽論にしたがい、向かって右の阿形が雄、左の吽形が雌とされます。

 これは、もともと中国の官衙(カンガ=役所)の門前に、大理石などで造形したものによっており、この左右一対の獅子は守門獣(守護獣)とされます。こうした像は今日でも中華料理店の入口などでよく見られるものです。

 ところで、守門獣像としての獅子の起源は古代オリエントに求められ、わが国の狛犬(コマイヌ)もこの流れといわれます。

 狛犬は神社境内の入口や拝殿の前に並置される一対の架空獣像で、魔除けと神の守護を担っています。これは、そもそもが天皇の玉座を護衛する守護獣像として誕生したといわれ、当初は神社になかったそうです。

 ただ、本来は「獅子・狛犬」といい、拝殿に向かって右手にいる阿形像が獅子で、左手にいて角の有る吽形像が狛犬です。
狛犬は高麗犬とも書きますが、朝鮮には狛犬文化は見られません。また、一角獣であることからさまざまな起源説がありますが、狛犬は日本独自の造形といわれます。

 また、両者ともに狛犬といったバリエーションもあり、このとき多くは向かって右に1本角、向かって左に2本角の狛犬が配されます。

 ちなみに、阿形とは「ものの始まり」を、吽形は「ものの終わり」を意味しているといいます。これは、「阿吽」がそもそも仏教用語であり、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音として、仏教では宇宙の始まりと終わりを表しているからです。
 また、俗に人が生まれるときには「ア」と口を開け、死ぬときには「ン」と口をつまえることから、と説明されることもあります。

 「阿吽の呼吸」という表現は、これを由来としていますが、転じて複数の人物が呼吸まで合わせるように行動しているさまを意味するようになります。

 こうした造形は、寺院の表門などに安置される金剛力士像にも見られます。これらの一対も、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての役目を担っています。
2011年05月19日(Thu)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その4)

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陰陽論のルール(その2)-必ず陽と陽、陰と陰を組み合わせる
 お酒飲みをなぜ「左党」というのでしょうか。
 そもそも盃は男であれば左手で持たなければならないというのが古来の作法とされます。
それは陽は陽、陰は陰と組み合わさねばならないという陰陽論のルールがあるからです。もちろん逆の、陽と陰の組合せはありません。

 すると、ご婦人方(陰)は盃を右手(陰)で持たなくてはいけないのかというと、まさにその通りです。
今でこそ女の酔っぱらいは珍しくありませんが、かつての女性がハレの場においてはお酌に専念したことから、お酒飲みは男性に限られました。これが男性の酒飲み、すなわち「左党」が酒飲みの代名詞となった根拠です。

 ちなみに、お酒を好んで飲む人を「左きき」ともいいます。これは陰陽論と関係なく、金鉱で働く人たちの仲間内の言葉から生まれた符丁とされます。
金を掘る人は右手に槌(ツチ)を、左手に鑿(ノミ)を持つことから、つまり「鑿を持つ手=ノミ手=飲み手」で「左きき」という駄洒落から生まれた言葉とされます。

 ところで、お酌をするときに酒器、たとえば徳利などの正式な持ち方はご存知でしょうか。
陰陽論では手の平が陽、手の甲が陰とされることから、左手は手の平を上に向けて酒器を支え、右手は手の甲を上にして酒器を持つ。つまり、陽は陽、陰は陰と組み合わせた仕方が、お酌をするときのマナーとされてきました。

 ちなみに、これを色里(遊里)では逆にしたのが慣わしでした。こうした徳利を持つ、手の平を上に向けた右手を外へひねって、しかも片手で酌をする例は江戸時代の絵草紙にも多く見られます。
 かつて色里でのしきたり、すなわち廓様(クルワヨウ)は独特の風俗を持ち、酌に限らず「逆さごと」が多く行われました。
これは、色里が現し世(ウツシヨ)ではない異界とされたことによるのでしょう。

日本料理の陰陽
 陰陽論はその他にも生活文化の中にさまざまな場面で息づいています。なかでも日本料理の世界においては顕著です。

 たとえば山(で採れた食材)が陽、海(で採れた食材)を陰とするところから、食する当人から見て左に陽のもの、右へ陰のものを配膳します。御飯を左、汁物を右とすることも、これを由縁としています。

 これは茶菓をお出しするときも同様であり、つまり固体を陽、液体を陰と見るところから、お菓子はお客様から見て左側、お茶は右側へ配します。
 また、尾頭付きの魚も頭(陽)を左へ向け、尾(陰)を右に配膳するのが作法です。このとき魚の腹は手前になり、背が向こう側となります。

つまり、右前の着装ルールと同様であり、手前が陰で向こうが陽という例がここにもあります。
 なお、魚は生きて泳いでいるときには背が上で腹が下になるので、人の場合とは逆に背が陽、腹が陰となります。

 平安時代から続く膳部料理の一流派、四条流では、腹背は陰陽逆転しますが、カレイも頭を左へ配してよいとしています。さらに魚についていえば海魚が陽、川魚が陰とされるので、川魚は頭を右へ向け背(陽)を手前にするそうです。

 さて、魚の腹背と同じような例に、一つの器の上へ別の食材を盛りつける場合も、手前には陰の食材、向こうには陽の食材を配するといった約束事があります。
 たとえば会席料理で用いる八寸と呼ぶ器には、取り肴が数種類盛り合わされます。このとき手前には刺身など海で採れたもの、その向こうには野菜など山(陸上)で採れたものを盛りつけるのがルールです。

包丁の陰陽と陰陽和合
 日本料理で最も大切な道具といわれる包丁の刃にも陰陽があるといわれます。
和包丁は一般に片刃であり、右手で包丁を握ったとき、上から見て左側は刃が無く平らです。そして、刃がついているのは握ったとき右側になる面です。この左側の平らな面が陰、右側の斜めの面が陽とされます。

 これの説明として、よく引合いに出される例が食材を切ったときの形状です。たとえばリンゴをむくとき、包丁の面の右側が食材に当たります。仕上がったものが丸いので、こちらが陽の面。
 逆に、豆腐などを切るときは左側の面が切り出す食材に当たり、仕上がった食材は四角く角が出ます。この形状から包丁の左面を陰とするものです。
 なお、球体と直方体を、それぞれ陽と陰と見るのは方円相対の応用編ともいうべきものでしょう。

 ところで、一般に刺身を造る場合には、あらかじめ短冊状にサク取りされた切り身から小分けされます。このとき切り出された刺身は包丁を傾けて一片ずつ起こされ、包丁の当たった面が上に向けられることが普通です。

 料理界では、サクを右から順に切ったものが陽の刺身、逆に左から斜めに削ぎ切りにすれば陰の刺身になるとしています。
つまり、包丁の右面(陽)で起こされた刺身が陽、包丁の左面(陰)を使って起こされた刺身を陰とするものです。
 そして、陽の刺身は陰の角皿に、陰の刺身は陽の丸皿に盛りつけなければならないとされます。これをもって料理界では陰陽和合とするのだそうです。

 しかし、陰陽論では元来、陽と陰の組合せは行いません。

 料理は素人である私が思うに、丸皿に盛られるフグの薄造りなどの盛り付けは、たとえば菊の花弁状に、円形(陽)となるよう並べてゆきます。
逆に、マグロなど四角くサク取りした身はいくら切っても四角いもの(陰)であり、盛り付けもブロックでなされます。
それぞれを丸皿(陽)、角皿(陰)に配するのはこれが本当の理由ではないかと考えます。つまり、本来が陽と陽、陰と陰を組み合わせていると思うのです。

 しかも陰陽和合とは、そもそも同格のものが絶妙なバランスを保ったときに用いられる言葉です。
ですから、皿と刺身を陰陽の対象にするのは、陰陽論の本義からすれば少し首を傾げざるをえないのですが、いずれにせよ日本における陰陽論では陰陽和合を最も大切な思想としてきました。
2011年05月18日(Wed)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その3)

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陰陽論のルール(その1)-まず主体を考える
 衽の右前合せのように陰陽論を語るときには、必ず「主体が何なのか」というところを考慮しなければなりません。

 表具においても、すべて向かって右を上、左を下とし、たとえば紙を接ぐ際も必ず右上重ねにします。この場合は継がれた紙が主体です。
したがって、日本では現在でもこれが由縁し、封筒の重ねは必ず向かって右を上にしています。

 表具の世界では、左上に接ぐことを起請文(キショウモン)の接ぎ方から生まれた言葉で「起請継ぎ」といい、古くからタブーとされてきました。
起請文とは、かつて契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書をいい、左上重ねで仕立てられるものです。

 左上重ねが禁忌とされたのは、式正の書類を包むときには包み紙が必ず右上になるよう重ねてきたのに対し、たとえば非常の果たし状では上包みを、通常とは逆の左上に綴じたことからもわかります。
そして、これが葬儀など弔事での左上重ねにするという包み事のルールに繋がります。

 さて、掛軸を仕立てる様式の一つに、「風帯(フウタイ)」を用いるものがあります。風帯とは掛軸の展開時に八双(ハッソウ)からぶら下がっている2本の帯をいいます[図-2]。
掛軸の収納時には、この風帯を八双と平行に折り畳みます。この際、主体が掛軸であることから、これもやはり右前となるよう、向かって左の風帯から折り始めます。

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[図-2:掛軸各部の名称]

 また、襖が2枚建ち並んだものを「二枚建て」と呼びます。この二枚建ての襖も襖が主体であることから、あるいは襖の向こうに主体があると考えることから、向かって右側が手前に来るよう建て込みます。
これは襖以外の建具、たとえば障子なども同様であり、こうした引違いの間仕切(マジキリ)はすべて右前に遣り込みます。

 さらに引違いに限らず、観音開きの扉であっても向かって右を後から閉じ込むのは同じ理由です。この場合、観音開きに納められたものが主体であるという発想です。

 これは余談ですが、襖や障子の、引違いといった開閉方式は日本で生まれた独自のものといわれます。オランダにも引戸がありますが、これは江戸時代に長崎出島の日蘭貿易によって、かの地に伝わったとされるものです。

死装束と左前
 日本では葬儀の際、ご遺体へは通常と逆に、死装束(シニショウゾク)を左前となるように着せます。これは亡くなった方がお召しになる着方であるので、死人前ともいいます。
このことから左前は縁起が悪いとされ、今でも信心深い方はとても嫌います。

 さらに、これが転じて運が傾くこと、経済的に苦しくなることを左前と呼ぶようになります。かつて縁起を担ぐことが多かった商家では、襖の左前による建て込みですら、ひどく忌んできたものでした。

 ところで、葬儀に関係する物事では、左前に限らず通常とは逆の仕方で行なうことがしきたりでした。これを総称して「逆さごと(さかさごと)」といいます。

 たとえば、ご遺体の枕元に屏風をひっくり返して立てる「逆さ屏風」がそうです。
また、ご遺体を棺に納める前に湯水でぬぐい清めることを湯灌(ユカン)といいます。この湯灌の際に用いる湯は通常とは逆に、水へお湯を注いでぬるくするという「逆さ水」などの風習もそうです。

 さて、ここで大切なことは、陰陽論はそもそも陰と陽を「相反しつつも、一方がなければもう一方も存在しえないもの」と定義していることです。
 ですから、陰の要素とこれに対応する陽の要素には、そもそも格の上下や聖俗の区別がありません。
すなわち、生と死の場面においても、「逆さごと」はあくまで通常行う所作などの順を逆に行うということです。

 また、葬儀では白張提灯(シラハリチョウチン)を用います。提灯には油がひかれたり字や絵がかかれているのが普通です。
それが、白紙が張られただけのものを用いるといった、本来あるべきでない姿・状態のものを使用するのも「逆さごと」です。
なお、このとき特に白紙を張るのには意味がありますが、これは後述します。

左大臣と右大臣の格付け
 主体を考慮しなければならない例に、かつてのわが国の律令制における左大臣と右大臣の位置関係があります。この左大臣は一般の官人から見て向かって右に位置しています。
これを左大臣と呼ぶのは、左大臣が主体である太政大臣の左に位置しているからです。
さらに京都市の左京区・右京区も天皇を主体と見た同様の配置名称です。

 ところで、これは陰陽論と直接の関係はないのですが、中国では「吉事尚左、凶事右」という、左をたっとぶ(尚ぶ)老子や道教の影響で左が上位とされたことがありました。

 中国では時代によって左右の優劣が変わるのですが、日本は中国の歴代王朝の中でも特に左を尚んだとされる唐から強く影響を受けたことから、日本には伝統的に尚左の文化があります。
 ですから、日本では左大臣が右大臣より高位とされます。「あの人の右に出るものはいない」という慣用句も、このことを始まりとしています。

 こうした尚左の考え方は陰陽論と連動し、やがて陽を尚ぶとする、いわば尚陽の思想に発展します。

雛飾り
 桃の節句に行う雛飾りも五人囃子など、すべて向かって右より左へ、上位の者から下位の者へと並べます。これも尚左の思想によるものです。もちろん内裏様は陰陽論にしたがって、向かって右へ配置することが普通です。

 ところが、関東地方の雛飾りは内裏様が向かって左に置かれます。これは大正時代、当時の西欧化政策により、天皇皇后両陛下が御大典の際に陛下が向かって左へ位置されたことに因るものです。
つまり、西欧では右が上位という思想をならって当時の東京玩具協会が左へ内裏様を配置するようになったのが始まりといわれます。

 ちなみに、関西の銭湯では男湯の入口が向かって左、女湯が右。関東ではこれの逆になっているのも、こうした理由によるものかもしれません。

 さて、今日でも絵画で表現される雛(図)は、ほとんどすべて向かって右へ内裏様が描かれます。
そして、面白いのが西洋画法を専門とする画家は、たいてい内裏様を左に配して描いています。

 西欧諸国では並んで立つ場合に右が上位と先述しました。他に西洋と東洋で左右が逆転する例が、舞台の上手(カミテ)と下手(シモテ)です。
つまり、日本では観客席から向かって右が上手であるのに対し、西洋ではこれが逆になっています。

 これは西洋での「右」という言葉が「正義」を表し、またフランスの社会人類学者エルツが「右手=浄、左手=不浄」と考察したように、西洋では伝統的に右を尚ぶ文化があるからです。
2011年05月17日(Tue)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その2)

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方円相対
 陰陽論では円(円形)が陽で、方(方形)を陰としています。これは中国での古い考え方である天(陽)の形状が円、地(陰)の形状が方といった、天円地方の思想と結びついているからです。

 茶道ではこの方と円の関係性を方円相対(論)と呼びます。これは、たとえば茶室へ造作される火灯口(カトウグチ)の形状に、この思想が現されています。
 火灯口とは茶室における亭主の出入り口で、天部が半円形になっている開口部をいいます。円が陽であることから上部(陽)に配し、方が陰であることから下部(陰)を方形とするものです。

 ところで、銭形平次が投げているのは「寛永通宝」とされます。寛永通宝は江戸時代の代表的な銭貨で、その形状が円形方孔につくられたものです。この形状は、そもそも中国で災難除けや幸運を願った、まじない用の厭勝銭(エンショウセン)に始まるとされ、やはり方円相対にしたがったものです。なお、この厭勝銭は中国で通貨として用いられたことはありません。
寛永通宝

 また、会社や商店では代表者印と社印(店印)を、それぞれ円印、角印とするのも方円相対が理由でしょう。

 円と方で思い出すのが、前方後円墳です。陰陽論がいつ頃わが国に伝わったのかは知れませんが、前方後円墳は前円後方墳と呼ぶべきだと主張する学者がおられるように、今日では前が円で後ろが方とされています。そして、古い前方後円墳はおしなべて円が東、すなわち陽の方向に向いています。理由は後述しますが、これは陰陽五行に見合った配置です。

 さて、陰陽論による二元論的な思考方法は、現在でも日本の特に生活文化の中に強い影響が見られます。
 こうした陰陽論で最も身近でよく用いられるのが、右、左です。

着物の陰陽
 たとえば和服を着るとき、右前に着装するというのが古くからの作法です。これも陰陽論からこのルールが生まれています。

 ここで考えていただきたいのが、右前はあくまで皆さんが着物を召されている人に向かって使う言葉です。とすると、着物を着ている本人にとっての右前とは、左側が右側の上にかぶさっている状態をいいます。言い換えれば、このように着ると右手がふところに入るようになります。
 以上のように、左が陽で右が陰なので、左の衽(オクミ)が右の衽より前に来るというのが、陰陽論を反映した呉服着装のルールです。

 ところで、古墳の副葬品に見られる人型埴輪は、よく見ると襟元を左前で合わせています。おそらく古代の日本では左前に着ることが普通だったのでしょう。
 しかし、奈良時代、養老律令で「天下ノ百姓皆右衿ノコト」と定められ、以降は右前が定着しました。なお、このときの百姓とはあらゆる姓氏を有する公民の意であり、また衿(ギン)とはエリのことで衽と同様、着物の前の重ね合せ部分をさします。

 当時は遣唐使の派遣によって唐の文化が流入し、唐様文化(カラヨウブンカ)が栄えようとした頃です。この頃の急速な中国文化の吸収および中国化の必要性が、中国での右前に着装するといった陰陽論による慣習までをも法令化に繋げたのでしょう。
2011年05月16日(Mon)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-第Ⅰ.左右の章(その1)

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第Ⅰ.左右の章 

 日本のしきたりには、外来文化に根差すものと、在来文化から発展し慣習化したものがあります。今日見られる外来文化に基盤を置くしきたりは、ほとんどが中国由来のものです。

 そして、こうした中国文化を背景とするしきたりには、陰陽五行が深く関わっています。

陰陽五行
 陰陽五行とはそもそも古代中国に起源する哲理とされたもので、陰陽論と五行説が結びついたものです。

 陰陽五行は中国の民族信仰である道教や儒教に多大な影響を及ぼしました。当然、インド渡りの仏教も中国で陰陽五行の洗礼を受けています。また、神道の体系化にも陰陽五行が活躍したことから、神道における慣わしにも陰陽五行の影響が諸処に見られます。
 ただし、陰陽五行は決して宗教的な思想を説明するものではありません。

 陰陽五行はカビの生えたような考え方とする人があります。すなわち、西洋由来の近代科学思想が、東洋の陰陽五行といった前近代の思想を文化の片隅に追いやってしまったという現実があります。これが今日、陰陽五行とこれに関わる事物が見えづらくなっている理由です。

 しかし、陰陽五行が日本人にとって今なお大切で忘れてはいけないのが、かつてはこれによって物事の理を表す説明体系が構築されていたことです。すなわち、近代科学が未発達であった頃には、陰陽五行が一つのモノの尺度、あるいは自然の摂理として信じられていた事実があったからです。
 
 こうしたわけで陰陽五行はかつての日本文化に大きな影響を及ぼしました。したがって、たとえば表具を行う上での約束事にも陰陽五行をルーツにするものが多くあるように、しきたりを探るには陰陽五行を知らなければ説明できないことが数多くあります。

 ところで、この陰陽五行の理を基にした、道教の影響を色濃く受けたとされる方術が日本に伝来し、これへ密教や神道その他の精霊観が合わさって成立したものに「陰陽道」があります。
 陰陽道は多くオンミョウドウと発音し、今日ではインヨウドウと呼ばないように、この陰陽道は日本独自の信仰体系です。
 なお、これを司る者が平安時代の安倍晴明に代表される陰陽師(オンミョウジ)です。この陰陽師達はさまざまな迷信をつくり出しました。

 かつて政治にも深く関わっていた陰陽道ですが、今日では疑似科学とみなされるように、陰陽道は近代科学思想に照らせば多分に胡乱なものです。陰陽五行を胡散臭いと感じられる方が多いのは、この陰陽道との混同があるからというのも理由の一つです。

 さて、こうした陰陽五行をまず、陰陽論と五行説に分けてお話ししてみようと思います。


Ⅰ-① 陰陽論

 陰陽とは相反する陰と陽の二気のことであり、陰陽論ではこの二気を万物に当てはめます。たとえば太陽が陽で月が陰、男が陽で女が陰、上が陽で下が陰、奇数が陽で偶数が陰、また左が陽で右が陰と説きます。

 すなわち、これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在しえないと信じられてきたものです。簡単にいえば、世の中は表と裏、プラスとマイナスでできている、ということです。

 そして、これが発展し、陰陽論は陰と陽の二気の消長により万物の生成変化を説き、こうした二気が調和して初めて自然の秩序が保たれるとする二元論的な思想となります。
 つまり、一方が廃れば、もう一方の気が興る。この循環がよどみなく続くことによって、世の中の安定を保つことができるという考え方です。
 なお、こちらを以降は、特に陰陽二元論と呼ぶことにします。

陽暦と陰暦
 陰陽論は、どのような形で今に残っているかといいますと、たとえば言葉で探れば陽暦と陰暦があります。
 陽暦は地球の公転運動、すなわち1太陽年を基本単位にした暦で、太陽暦ともいいます。そして、陰暦とは月の満ち欠けを基本単位とした暦で、太陰暦ともいいます。

 ちなみに、太陰暦では季節が合わなくなってしまうので、日本では明治6年まで季節が符合するよう、太陰暦を修正した太陰太陽暦を使用してきました。これを私達は旧暦と呼んでいます。

 さて、陰陽論は中国古代に、自然と人生の変化における道理を説く易の思想と結びつきました。この易では「太極」が万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずるとしています。そして、まず太極より日と月が生まれたとされることから、日のことを太陽、月のことを太陰と呼ぶようになったといいます。
 なお、「易」の字自体が「日」と「月」から構成されるとする説もあります。

 陰陽思想を図示したものにはさまざまありますが、これを一般に太極図と呼ぶのもこれが由来です。なお、大韓民国の国旗には、円図とも呼ばれる太極図の流れを汲むものが中央に描かれることから、これを太極旗と呼ぶのはこうした理由です。

[図-1:太極図]
[図-1:太極図]

 [図-1]は陰陽を勾玉形に表現し、これを魚に見立てて陰陽魚太極図とも呼ぶ、最も一般的な太極図です。このとき白抜きが陽、黒ベタが陰を表し、それぞれに見える小さな円は陰の気が極大となっても陽がある、逆に陽の気が強くなれば陰が生じ始めるといった陰陽二元論を示すものです。

 ところで、日の光を日光といいますが、月のあかりは光であるにもかかわらず、月影ともいいます。それは陽=日=光、陰=月=影と陰陽論は規定するからです。また、古くは生前住む家が「陽宅」、墓が「陰宅」と呼ばれたことも陰陽論に根差します。
2011年05月15日(Sun)

『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』-まえがき

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 表具師はただ材料を集めて組み立てるだけでなく、作品内容に沿ったこれらの組合せが要求されます。そのため表具師は、表具に用いる紙や織物といった材料が持つ物理的な性質のみならず、これらが伝統的に有してきた意味をも熟知しておく必要があります。そして、これらを配色する際の根拠も然りです。

 こうした組合せの仕方を伝統的に「取合せ」と呼んでおり、この取合せには一定のルールがあります。このルールは表具千年の歴史の中で吟味され洗練されて確立したものです。たとえば仏画なら金襴の、しかも多くは唐草文様を使って表具するといったことです。

 ところで、このルールは主に日本人の宗教観が左右してきました。つまり、取合せの根拠は、こうした宗教あるいは自然な民俗信仰から派生した日本の生活文化に根差すものが極めて多くあります。

 表具師は得意とする分野こそありますが、たいていあらゆるジャンルの和物作品を扱います。ですから、表具師は至らずとも本来、日本人が関わってきた宗教や日本の生活文化全般について通じていなければなりません。

 また、表具に限らず日本の伝統的な職業、たとえば大相撲の、また歌舞伎や日本料理の世界には、こうした守るべき和のルール、すなわち約束事が極めて多くあります。
 しかも、それらには共通する事由があり、それらは日本人が守り伝えてきたしきたりや和の心を形成する根拠とほとんど同根のものです。

 私が以前に出版いたしました『表具-和の文化的遺伝子』という書物は、表具の取合せに関するところをメインに記述したものです。これはプロ向けのハウツー本であり、執筆中には取合せのルールについて深く考える機会がありました。
そして、このハウツー本を書くには、こうしたルールが、どういった原理で形成されたのかを説明する必要がありました。
 そこで本編では、このときに得た理解について記してみたいと思います。

 かといって表具のお話しをするのではありません。ここでは私達の身近にあるしきたりがどういった根拠の元になされてきたのか、和の心の本質は何なのか、といったところを中心に、至らぬこととは思いますが、至らずまでも述べてみたいと思います。

 さて、人が社会で生きて行くにはルールとマナーが必要とされます。ですから、しきたりを知っていること、守ることというのは、その社会における一つの儀礼であるでしょう。
 また、民族固有のルールやマナーを護り伝えることは、その民族の義務であろうかとも思います。

 しかし、これが過ぎると迷信を生み、たとえば丙午生まれの女性は結婚の際に差別を受ける、また鬼門を信じることによって長いローンを組んで新築した家も不自由な間取りに甘んじる、といった謂われのない不都合が生じます。
 また、たとえば百年前に生きた人と、現在に生活する人とでは教育や、その信仰観、価値観も異なり、しきたりに順うことへ強い抵抗を覚える場合もあります。

 ですから、これらの間の線引きというか、見極めが大切であると思うのです。そして、こうした分別こそが本当の教養であるといえるでしょう。

 しきたりの由来、根拠を知るということは、この分別を養うことに通じるものだと考えています。
 本編が、このあたりのことへ少しでもお役に立てればと願っています。

 ところで、掛軸の体裁こそ遠い昔に中国大陸から伝来いたしましたが、掛軸は日本で特殊な進化を遂げ、今日では日本人の心性を象徴するものともなりました。
 さらに屏風は日本オリジナルな調度・什器であり、襖や障子といった間仕切も世界に類例がありません。
 また、和室の欄間部分に据える和額は、意外なことに江戸末期頃の創製で日本発祥のものです。

 和の心が少しなりともわからないと、こうした表具の発生に理解が及びません。すなわち、表具自体が和文化、いわば「和の文化的遺伝子」を備え伝えるものであるといって過言ではないでしょう。

 本編では表具を通して、和の心とはどういったものかも追求します。
 そして、伝統的な世界を紹介することによって、これが今日の「和ブーム」を側面から支えるものになることも願っています。
2011年05月14日(Sat)

はじめまして

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 本日、ブログを立ち上げました。

 不定期更新になることもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします。

 ところで、私の職業は一般に表具師と呼ばれますが、表具という言葉をご存じない方は全くといってよいほどご存知ありません。

 そこで簡単に表具について説明しますと、表具とは二次元的に表現された芸術工芸作品をメークアップする仕事のことです。
 もう少し具体的にいえば、絵画作品や書作品などを掛軸や和額に仕立てる、あるいは襖や屏風といったスタイルでまとめあげる仕事のことをいいます。障子紙を張ることも表具の仕事です。
 そして、こうした仕事に携わる人を表具師といいます。

 さて、私は平成19年に『表具-和の文化的遺伝子』というタイトルで、表具の専門書を上梓いたしました。
 私は表具業を営むかたわら平成3年より13年間、大阪府表具高等職業訓練校で講師として従事いたしました。本書は当時、適当で適切な表具のテキストがなかったため、講義ごとに私がつくってまとめたレジュメを集大成したものです。

 ところで、この本を執筆中に表具と関連しているが、コンテンツとして取り上げるにはふさわしくない、あるいは類推することはできるがさほどの根拠がない、といった事項がありました。

 これを『表具文化から探る日本のしきたりと和の心』と名称づけ、日本のしきたりの根拠といったところを切り口に、このブログで連載してまいりたいと思います。
 なお、本編は3章立てで、合計約10万字での連載を計画しています。

 乞う、ご期待!
2011年05月14日(Sat)
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